「秘密」

功介:「やれやれ・・」

真琴:「わたしもさ、実はこれからやること決まったんだ。」

功介:「へーー、なに?」

真琴:「ヒ・ミ・ツ・!」

功介:「は?、なんだよそれ。」

真琴:「ウフフ・また今度ね!」

ANIMESTYLE ARCHIVE 「時をかける少女 絵コンテ∞細田 守」 飛鳥新社より

買ってから約2ヶ月してようやく、「時をかける少女」の DVD をみた。結局、夜中1人でうつろなながらも、パソコンの画面で見た。じっくり見た。最後の方の台詞がとても気になった。まず理解されないであろう、あの現実を胸に秘めて、真琴はこれからどう大人になって行くのだろうか。彼女が「魔女おばさん」と同じ年の頃に成ったとき、その秘密はどんな形になっているのか。なんか、そんな事に興味を持った。

多分、私自身、今までの人生で人に語る事よりも、胸のうちにしまい込んでしまった事柄の方がはるかに多いせいもあるかもしれない。秘密を胸にしまうのは、苦しい事が多い。自分の体験からそう思う。

色々と人の秘密に触れる機会が多いと思う。じっと耳を傾け聞く。
そうして、理解を進めるうちに、相手から信頼感を得る。
そうして、秘密を胸のうちに抱えている負荷を私も共に背負う事で、相手は少し気持ちを楽にする。
そのとき、相手の秘密が、自分の琴線にふれて、ふと自分の秘密が漏れていきそうな気持ちになる。
ぐっとこらえる。

占星術をやっているせいか。そんな経験を何度もしてきた。特殊な才能を持つが故に、人の内面のすぐそばにすっと立ってしまう。通常の生活ではまず踏み入らない領域へ。弁護士や医者と言った守秘義務を持った職種の人なら、多分経験があるのかもしれない。

ただ、大切にしたいから胸にしまうと言うのもあるだろう。以前、何かで読んだが、幕内の力士で、場所中は寡黙を貫いた人がいた。理由を尋ねると、「言葉にすると稽古で貯めてきた力が、そこから抜けていく気がするからだ。」・・・感覚的に理解できる。多分に言葉を飲み込み、気持ちを押し込み、忘却の過程に流されて、それでもなお残ったものだけが、生命を得ていく。そんな感覚であろうか。

『ウフフ・また今度ね!』のその「今度」のタイミングは、多分彼女がずっと大人になった頃だろう。どんな状況で、その秘密を語るのだろうか。魔女おばさんが、間接的にではあるが、真琴へ自分の高校時代の経験を話したことと、類似するような状況かもしれない。仮にそうした機会があるならば功介に成り代わって、じっくりと耳を傾けてみたい気がする。


多分、人に言えない秘密を抱えた人であるほど、秘密を交換しやすい気がする。そんなことを何故か期待してしまう。不謹慎であろうか。


時をかける少女 限定版 [DVD]

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時をかける少女 [ 仲里依紗 ]

距離感


ふと目にした光景だが、なぜか奥行きのある光景に感じてしまった。実際に地面はすぐそばにあるのだが、何ゆえか山の上から、ふもとを眺めている気分だった。多分、間近に見たまだ緑色の紅葉の大小が、奥行きを演出して、そう感じさせてしまうのだろうか。

写真に撮ってみたが、そうした感じはあまり表現できない。写真は見たままに光景を移すことが出来るが、人の視覚には、多分見たままの像以上の情報が載ってきているのだろう。その差が一体どこから来るのか、考えてみれば不思議な話である。人は視覚において、三次元の現実を二次元の網膜に映しているのである。何処かで、距離感を工夫して表現していると思うが、結局何がしか平面的な像である以上の意味を乗せていると思う。では、その視覚に上乗せされた立体感をわれわれはどこで認識しているのだろうか。少なくとも感覚で得た情報ではないはずだ。・・何を考えているか表現が難しいが、見ることと見たものを認識することはどうも、本質的に違うことのように思えてきた。



何の花だろうか。多分、木の幹がすべすべしているが、百日紅でもなさそうだ。若干どくだみの花にも似ている。枝にめいいっぱい張った、葉っぱの上に乗せて咲くような白い花が、道案内の目印のように、視線を奥に誘う。見た目は静かだが、蜂などの虫が、蜜を求めて花に頭を突っ込んでは飛びと騒がしい。蜂そのものをカメラに収めようと思ったが、どうも、うまく行かない。やはり携帯のカメラでは限界があるようだ。

朝もやの 黄色に支那を 思いけり
考葦子

連休に家で一人。

アニメ版の「時をかける少女」の DVD 限定版を買った。


DVD の三枚組で、本編以外に、スケッチブックやビジュアルノートも入っている。色々あって、なかなか封を切っていなかったのだが、昨日ようやく封を切った。ただしまだ本編は見ていない。

スタッフ・関係者へのインタビューを綴った、ビジュアルノートは非常に面白かった。この作品に対する各スタッフの気持ちの入れ方が良く伝わってきた。仕事に対する入れ込み方が半端じゃない。背景画の数々が実は時には泣きながら制作されていたことを始め、様々な論議や葛藤を乗り越えて、この作品が仕上がったことがよく分かった。多分、単なる仕事ではこうは行かない。趣味でも無論駄目だろう。使命感とプロ意識なんだろうか。多分、映画を見たときに強く感じた作り手の気持ちは、この辺から来たものなんだろうなと実感できた。

さて、少し迷っていることがある。

  1. 本編、見ようか。(映画館で観た記憶を大切にしたい気もする)
  2. クワガタ君とてんとう虫のストラップ。どこに付けようか。

本編は出来れば、一人ではなく誰か大切な人と一緒に観たい気がした。さてどうしたものか。*1

時をかける少女 限定版 [DVD]

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*1:と言いつつ、明日にでも一人で観てしまうのかもしれない。

三脚は足の広げ方でどこにでも立つ事が可能である。

三区分法とは、人間存在を精神・心・肉体に三区分することによって理解する手法のことである。世俗的進行にともなって出現した二区分法とは、精神が弱まって心に包括された結果として、人間存在を心・肉体に二区分して理解する手法のことである。
実際のところ私たちは、精神の働きと心の働きを区別することが困難になりつつある。しかし古代ギリシャから近代に至るまで、西ヨーロッパにおいて精神すなわち霊魂の存在とその不滅性は、ほぼ一貫して主張され続けてきた。・・・・・・<略>・・・・・・ 近代においては例えばデカルト著「方法序説」第五部やスピノザ著「エチカ」Ⅴ−xxii やドイツ観念論において、霊魂不滅の思想は、霊魂にかんするイメージ或る程度の幅はあるけれども、総じて肯定されてきたのである。・・<略>・・しかしながら霊魂不滅の思想は、哲学的人間学のうち精神の位相を強固に支えるものであり西ヨーロッパ思想における本流であったいうことができるのである。
・・・・・<略>・・・・・
また倫理学上の価値観は二区分法によっては支えることができず、三区分法によってこそ、支えることができると、私はかんがえている。
中里 巧 「精神のリアリティ」 理想 第267号 P39-P40 2007 理想社 より引用

デカルト心身二元論が近代西洋思想の源泉のひとつと思っていたので、わりと新鮮な驚きを感じた。西洋思想も奥が深いと思った。確かに脚が三本あれば、どこにでも立つことが出来るが、二本の場合、安定を欠き、バランスを崩しやすい。著者はこの論の後半で、アニミズム的なセンス・直感を日常的、生活の中での実感として捉えることが倫理学を蘇らせることにつながると主張している。なるほどと思った。論としての倫理学についてはよく分からないが、倫理的に考えなければならないと思うことが最近増えたような気がしていたからだろう。

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昼下がり

昼下がり、久々に外に一人で食事に行く。駅の方とは逆向きに下町の住宅街の方に歩く。裏道の角にある文字通りセピア色にくすんだ喫茶店に入った。今日は2度目だからすんなり入った。最初は営業中の看板がまるで当てにならないぐらい時間が止まったような雰囲気で、少し勇気を持って入ったものだ。

店はおばあさんが2人でやっている店だ。今日は私が最初の客だったのかもしれない。なにやらにぎやかにしゃべっている。一人、窓際の席に古びて雑然とした店に佇む。明るいのは窓際だけだ。店の奥は少し暗い。奥の席には、何か物が置いてある。メモや小物や、新聞やら。端から客が座るのをあきらめたような机がいくつかある。中には正月の飾り物の松を再利用してアレンジされた花瓶が自己主張をしながら真ん中においてある机もある。なんか可笑しい。

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