夕方のピクニック

ようやく休みをまともに取れるようになったが、休みの日は文字通り休むだけに成りがちである。今日も結局、昼過ぎまで寝入っていた。秋晴れだったので、何故か寝過ごした時間が、勿体無く感じた。運動不足も解消したいし、家にいるのも気分が晴れないので、散歩に出かけることにした。

家の裏に公園がある。休日なので、子供が遊んでいる。ただ、不思議な事に、皆、親と一緒に遊んでいて、子供達同士で遊んでいない。自分の子供の頃と比べて、どうだったのか、よく覚えていないが、休みの日だからなのか、平日になればまた別の光景があるのだろうか。それとも昔と比べて、なんか安心できない世の中になったのだろうか。家の前にある小学校も、普段は校門を閉じている。確かむかしはずっと開放的だったよう気がする。テレビのニュースで、子供が殺された事件が放送されていたが、そういう御時世なんだろうか。
しばらく歩いた後に、いつもなら通勤の途中にあるバス停からバスに乗って、最寄の駅へ行き、そこから、電車で二駅ほど乗ってから、歩いて家に帰ることにした。10年前までは、その近所に住んでいたので、懐かしい道筋だ。道の途中に昔通っていた高校がある。高校のすぐ裏が昔は竹薮から、雑木林が広がっていたが、2,3年前に大規模な宅地造成があって完全に切り開かれていた。友達が市役所の建設課に居た事もあってか、地上げや、自然保護名目での反対運動など、色々な裏事情を聞いていたが、多分、この切り開かれた町に住む人々は、そんな事を何も知らずに、ただ購入した住居に住んでいくのだろうと思う。家を買うという行為が街を大切にすると言う行為にちゃんと繋がるのだろうかとふと思う。最近、新聞で、町の安全を確保するために警備員の街頭パトロールの派遣サービスを始めたと言う記事を読んだが、生活に関わる事が全て消費と言う行為で括られていく。そんな現状になんとはなく違和感を感じる。

少し回り道をして、出身高の正門前に佇む。夕暮れの校舎の風景が妙に懐かしい。そう言えば、最近、1年生の男子が、手首をナイフで切った後に、窓から身を投げて、死亡した事件があった。mixi の出身校のコミュで知ったのだが、同期の子が、「1人で抱え込んだ、その子の心痛いな〜」とコメントしていたのが印象的だった。確かに喧嘩したり、いじめに合った事もあるけど、校風は大らかで自由だったような気がする。心中で手を合わせて、校門を後にした。

散歩の途中で、本を買った。NHK の取材班が「ワーキングプア」をテーマにした番組を制作したが、それをまとめた本だった。取材記録が中心で、筆者の個人的な思いが入っているせいか、情に訴えって読ませる本で結局、一気に読んでしまった。ただ、経済的な貧困の拡大と固定化以上に、心を動かされたのは、以下の文章だった。

内藤さんがもうひとつ強調するのが労働のあり方という視点だ。
「結局報われないと人々は働く意欲を持たなくなります。労働を美徳としてきた日本のこれまでの過去の特性が失われてしまうでしょう。働く人々に報いているかどうかがその国の本質を物語ると思うのです。」
単に金銭的な充足だけではなく、社会の役に立ったか、生きがいを見出せたかという働くことの意味まで考えなければ問題は解決したことにならないという。きわめて重い指摘だと思う。

ワーキングプア 日本を蝕む病 NHK プロジェクト取材班・編 ポプラ社 P218-P219 より引用

最近、デスマーチなプロジェクトに携わり、単に知力、体力を消耗するだけのような業務を強いられてきた。疲れ果てた日常から、自分の向上心が失われていく事に気がついて、危機感を覚えていた。こうした疲弊した現場から、ドロップアウト*1して行く先が、ワーキングプアな世界だとしたら、案外と人事ではない。実際に、3年前に母親が病にかかって、その看病で自分が折れそうに成ったときも、生活苦に陥ってしまう。そんな不安にさいなまれた事もあった。労働の尊厳、自他共に労働を通じて、成長していくこと。果たして普段、意識して大切に守ろうとしているだろうか。

弱肉強食の世界で、強者になっても、心を失い、得られた金銭で全てを消費する事に終始する生活。ステレオタイプかも知れないが、なんか嫌だ。

偶には、見知らぬ町を独りで歩いてみるのも良い。考え事をするには、家にいるより、歩きながらの方が、ずっと深みが出る。

ワーキングプア―日本を蝕む病

ワーキングプア―日本を蝕む病

*1:実際に、スタッフ1人がパニック障害を起して、途中でプロジェクトから抜けている。