[つれづれ][思索] コミュニティの理由。

舞鶴に引揚記念公園というところがある。第二次世界大戦終了後、舞鶴港は外地からの引揚者を数多く迎えてきた。特に旧ソ連には、約60万人の抑留者が居た為に約6万人分の遺骨を含めた、そこからの引揚者を数多く迎えてきた。

引揚記念公園の望郷慰霊の碑と引揚桟橋は公園の小高い丘の上にあり、かつての残橋から引揚者の受け入れ場所などの有った場所を一望に見渡す事が出来る。その丘に登るまでに桜の植樹があり、数々の植樹碑が立っている。関東軍の部隊、士官学校の同期、従軍看護婦隊、同じ収容所で強制労働をごとに結成され、収容所の地名等記した数多くの会、そうした名を記した数多くの碑が立っている。

丘を登りながら、彼らは何故に会を結成したのか、ふと思った。記念と言うにはあまりにもつらい日々だったと思う。公園にある記念館の展示にある零下40度の最低気温。粗末な食事と重労働。思い出したくないような経験だったと思う。知人の父親はシベリア抑留者であり、その語る経験はあまりにも重苦しい物だったと聞いたことがある。明日をも知れない保証無しの命を懸命に繋いできた戦いがあり、そして帰るべき故郷と出口の無い壁があった。例え異郷の地に倒れても、故郷に俺の骨を埋めてくれと同じ抑留者に託すしかなかったのか、そして生き残った物は何を以ってその骨を守ってきたのか。

この人たちは、何のために会を作ったのだろうか。仲間を作るきっかけが、ただ生き延びて、死んだ者の骨を持って帰るためだとすれば、つらい記憶も分かち合わなければ支えきれないほど、重く、つらい物なのだろうか。一人では花を添える事が出来ないほど、そしてこれから桜の木が枯れるまで何十年、何百年と花を添えつづけなければ、弔いきれないほど、重く、つらい物なのだろうか。

望郷慰霊の碑を背に、厚く垂れ込めた雨雲を眺めながら、少し物思いにふけった。

慰霊の碑
ぬらす秋雨
涙降る