[こころ] 昔あった事。

今日は久々に昔、開発したシステムを試験的に納めた某自治体でメンテナンス作業を行う。もうすっかり終わった仕事と思っていたら、開発は終わったが事業化に結局、失敗したあおりで、結果的に誰も保守が出来なくなってしまったらしい。そうして、結局一番最初に設計に携わった私のところまで来たということである。

久々に、昔に書いた自分のコードを読むが、あの頃の自分の拙さを直視しながらというのは、少し複雑な気分である。考えてみれば無謀な取り組みだったような気がする。JDK 1.2.2 のコンパイラを使って修正作業。開発環境にしていたパソコンも先日、故障してしまった。たまたま、ソースだけは気まぐれで置いてあったので、運用マシンに開発環境を入れ込んで作業を行う。JRE しか入っていないので、Sun のサイトから JDK 1.2.2 を入手。ちゃんと置いてあったので助かった。長く使うなら、運用マシンに開発環境をそっくり置いておくというのも、いいのかもしれない。
今日は客先との対応は開発時にも一緒に仕事をした事業部の人に任せて作業に専念したが、くだん事業部の人、実は前のプロジェクトで方針などを巡って、協業先の会社まで巻き込み大喧嘩した相手である。結局、私はプロジェクトから下ろされ、彼が残ったが、協業先の倒産によりプロジェクトそのものもほぼ空中分解だった。あの時はかなりの犠牲者を出したような気がする。結局、随分無駄な開発費を随分使うは、中傷や嫌がらせなどで仲違いするわ、味方だったスタッフは退職するわ、彼の上司は降格されるわで、随分荒れたプロジェクトだったような気がする。

そんな彼と、土・日の休日、遠く離れた場所この客先へ2人で出張。約一年半ぶりか。彼も結局、会社に対して精神的に諦めていたが故に、協業先の会社に入れ込んでしまい、その辺の偏り気味な所に、私が反発して大喧嘩に発展したのであるが、彼も今は立場的には落ち武者のような所があるせいか、不思議と腹は立たない。が話には気を使う。彼も本来は別に今日明日とここにいる必要は無いと思う。大方、何がしか関係修復のようなことを考えているのだろうか。確かに彼は会社では孤独だと思う。

腹の探り合いというのも少し疲れる。
突き放すのも大人気ない。
しかしすぐに親しくするのも逆にいやらしい。

成り行きに任せて、こちらからは出方を待つのが一番だろう。自然体か。彼も本当に一人なのか?倒産した協業先の関係者には隠しておきたい情報も幾つかある。彼のことを嫌っている同僚もいる。ただやはり同じ会社の人間である。まあ彼もその辺は大人だろうし、何もないならそう言うことなのだろう。二人でホテルの夕食を食べながら、お互い、暗黙のうちに当り障りの無い話題を選び、お互いの状況を確認しあっていた。

何かを語っている時と言うのは、何かを隠すための時もある。

しかし、あの争いを通じて、何に拘るべきか、何に拘ってはいけないか、そんな事を学んだと思う。正しさを主張し、筋を通すのは大切な事だ。しかし正しさに拘る事と相手の非に拘る事は違うような気がする。自分が正しいと思えばこそ、何事も恐れずに物事をやりぬく事が出来る。自分一人なら良い。一人では何も出来ないから仲間を増やす。仲間はやはり大切だから、気を使い、時には仕事を順調に進めるために守っていく必要もある。そうして彼らの代弁者として振舞うが結えに自分を見失っていったのかも知れない。仲間の全てが、筋を通すために仕事をしていたのでは無い。むしろ感情で動いていた人間の方が敵も味方も含めて大半だったような気がする。

人は相手が間違った行動を犯す時、まずそこに目が行って自分を忘れてしまう。
人は自分(の味方が)正しい時、その正しい部分しか見えない。今が正しくてもこの先、その正しさを保つために何を考えているだろうか。大抵の人は何も考えていまい。

争いを通じて行き過ぎた相手への非難から形成が逆転し、プロジェクトの形が崩れていき、段々と一人になる中で、ふとそんな事を思った。周りから人が離れていくに従い、腹を立てる事も多かった。しかしその腹を立てている自分に何かおかしいと漠然と思ううち、自分もその「大抵の人」であった事に少しづつ気づきはじめた。

自分が正しい事に拘ってはいけない。神様でもない限り、正しい事≠自分なのだ。

人に頭を下げる事で何を失うのか。考えてみれば似たような話は常に私の人生に付きまとっていたような気がする。今までのそうした嫌な人生にさよならを言うためにも、まずは相手からの謝罪要求は素直に飲もうか、向こうに行った者の事は素直に忘れようか。そう思い、いろいろと我慢もしたが、結果的には「負けるが勝ち」だったような気がする。そうした葛藤を引きずっている部分は今でも有るだろう。だが、そう自覚できるが故に私は次の道を探すことが出来るのだ。

大喧嘩が落ち着きそうになった頃、そんな事を普段よく相談する占星術の人に行って話したら、「えらい!」そう一言だけ言ってくれた。話を聞いてくれるだけで、アドバイスは殆ど無かったが、その一言には随分救われたような気がする。何が正しいかは理解していた、ただ自信が無かっただけだったと思う。

次に学ぶべきことがもし和解だと言うなら、それはそれで考えるべき課題のような気がする。

和解は和解であって、自分を見失う事ではない。負けることではない。

そんな事を自分に言い聞かせる必要があるのだろう。色々あって疲れてはいるが、今の私に必要なのは癒しでは無さそうだ。季節はまだ寒いけど、寒さに顔をさらせば目が覚めるし、それはそれで気持ちの良いものだという気もする。そう思いたい。