レガシー

数年前に開発したシステムの保守作業も無事に終った。備忘録として思った事を簡単に記す。

ソフトウェアや情報と言うのは、形が無いが故にほぼ無限に近い寿命を持ちうる事が出来る。

昔開発したシステムのメンテナンス作業を行いながら、そんな事を考えていた。昔、文書が電子メディアに移行すれば、紙による保存が不要になり、すべての情報はコンパクトな磁気ディスクに収められるだろうと盛んに言われていた時期があった。しかし、それが間違いである事は、相変わらず出版は紙で行われ、私たちはプリンタでファイルの内容を打ち出している事からも明らかである。紙は何もしなくともすぐに内容を確認できる可読性と、適切な保存方法さえ取れば、百年、千年単位で劣化する事がない。

それに比べれば、ハードディスクは内容を読むのに、普通は他の機器の力を借りなければならないし、OSというシステムソフトウェアが適切でなければならない。おまけに5年以上経てば、いとも簡単に故障してしまう。データは読めなければ無意味なのである。磁気ディスクについてもそうである。磁気ディスクその物は紙よりも保存はし易いだろう。しかしそれを読むための機器についてはどうであろうか。やはり故障はするし、技術の発展により保存形式も変ってくるので、いつまでもその形式を読んでくれると言う保証はどこにも無い。あと割れてしまえばおしまいである。紙なら比較的簡単に部分的に情報が回収できるが、磁気ディスクなら普通は難しい。物理的に硬いメディアは柔らかいメディアに比べると、折れ易く、割れやすい。脆い所がある。*1
確かに、情報の検索や加工に関してはコンピュータメディアと言うのは、非常に強力な能力を発揮する。今回の仕事も某自治体向けの文書管理システムのメンテナンスであったが、ちょうど開発を開始した頃は Web ベースシステムの黎明期であり、イントラネットを使って情報の検索と共有について従来に無かった強力な機能を提供できるという触れ込みで開発を進めたものだ。開発時、情報の保管方法について検討した結果、完全電子化は止めにして、正規の文書は紙で保管し、電子データとしてその目録を管理しようということになった。その頃はまだ技術指向的な考え方が強く、その中途半端な方針になんか釈然としない物であったが、今考えると確かに理に叶っている。公印の押してある紙文書の方が公文書として考えれば、正当性を保ったまま保存しやすいのである。実際に経験しないと分からないことも多いものだ。

ドックイヤーといって IT 関係の技術の進歩は一年が他の分野の七年分に相当するとよく言われてきた。新しい技術は次々と発表されている。ある時期からそういった流行を追うのになんか疲れてきたと思う。新しい物を導入すれば、必ずしも結果が良くなるわけでもない。情報技術の進歩は早いのに、情報システムやソフトウェアは本質として保守的だと思う。一度作られた形式はなかなか変ろうとしない。そうした相反する部分に気づき始めたのは、多分この文書管理システムの仕事で、開発から保守までを結果的に担当しないといけない事になったからであろう。この自己保持性は、情報が形を持たないが故に寿命が長いという事に由来するのだと思う。人が本当に必要とするのは、記された情報であってその器ではない。

  • (必要とされる)情報(Infomation)の寿命が長い。
  • 情報技術(Infomation Technology)それ自身の寿命はそう長くない。

これから情報技術を考える上で、この2つの区別を明確にすることは大切な事だと思った。最近は直感的に新しい技術に対して何がしか、斜めに見てしまうところがあったが、案外とこの辺が理由なのかもしれない。そう思えば納得がいく。それは決して自分が保守的になったのではない。職場で流体解析を行っている人たちが未だ Fortran を使い、知人で年配のプログラマはもう自分の技術は古くなったのでこれからは職が無いともらしつつも、やはり COBOL 使って仕事をしている。情報が生き続ける限り、それを使う道具もまた然りである。その寿命を終えるのは、それが必要とされなくなった時なのだろうと思う。過去に作った情報は、これから作る情報で肩代わりしにくい部分がある。形式が変ればなおさらである。これから新しい物を考えていく上で、この辺は大切な事だと思う。

そう言えば、Web システムと言う事で思い出したが、今では当たり前の環境となった インターネット、WWW であるが、この発展の歴史と言うのは情報が散在してその概要をつかむのに苦労するらしい。とあるジャーナリストがそんな事を書いていたのを記憶している。中には消滅してしまった物も多いらしい。何故だろう。新しく進歩も早いが故に、誰もそれに関する古い事には興味を持たないのであろうか。それは単に古い事であり、歴史ではないのであろう。知りたいと思う人も、そうした声はまだわずかなのだろう。

情報は必要に応じて生ずる。必要の無いところには生じない。付随する技術も然り

そう考えると、インターネットや WWW に関する歴史がまとめられるのは、それが多くの人に必要とされはじめる時か。それはいつなんだろうか。極端な話それが失われ始めた時なのか。しかし失われたてしまったら、どうやって調べるのだろうか。電子化された膨大な情報を目の前に何が失われたか。探すのは非常に難しいと思うのだが。紙と違い、所在の秘匿性が高い*2だけに確かにそこにあるとすぐに確認できないのが難点である。

そう言えば、私が会社に入った頃は Windows 3.1 が大きくそのシェアを広げている最中であった。色々とよく使ったものであるが、今となっては殆どお目にかかることは無い。Virtual PC にも Windows 3.1 のサポートは無かったと思う。今日、帰りの新幹線を出張先の最寄駅で予約していて気がついたが、JR の列車予約システムの画面はあの Windows3.1 の GUI である。Windows 3.1Windows NT 3.51 かは知らない。規模も大きく基幹となるシステムである。おそらく開発にも時間が掛かってであろう。開発当初のコストや使い勝手を考慮した結果が多分に、Windows 3.1 ということであったのだろうが、開発が終了した頃には確か Windows95 が世の中に出てある程度たった頃だったような気がする。もうすぐ 約10年前となるのか。当然、長く使う事も考えて、約10年前の開発環境とかもそのまま置いているのだろう。Windows 3.1 はネットワークのサポートはオプションだったので、かなり手も入れたであろう。Microsoft 自身もは当然サポートはしていないだろうが、開発元でそうした環境は大切に保管されているはずだ。出なければメンテナンスに大きく支障を来たす可能性がある。

やがて、今の予約システムが全てリプレースされる時がきたら、やはりこうした開発環境も捨てられしまうのか。個人的には博物学的な価値もあるので、記録として残しておくのも大切なような気がする。しかしそう思う人がどのくらい居るのだろうか。やはり少なければ自然と消滅していくのだろう。元々、形の無い物である。一度要らなくなったら消えるのも早い。儚い物である。

*1:この辺の欠点をネットワークに情報を冗長に散在させて解決しようと出来上がったのが、今の WWW なのかも知れない。

*2:だからこそ、テロリストの犯行声明に Web が使われたりするのだろう。