宗教に関する一考察。

いつも、コメントいただいている、くめさんへ。問いに対する答えを書いてみました。

宗教とは:(ハムレットなりの定義です。)
(特に死生観に基づく)世界観、人生観、価値観とそれに基づく(その価値観を実現するための)行動基準・行動様式規範の体系。
並びに、その行動様式の実現を支援するための(社会的な)組織。

平たく言えば、宗教が何を解決するために生じたかと言う事を考えると、それは多分、なんで人間は生まれてきたん。そして、私はなんでこんな人生を過ごすんや。人間死んだらどうなるねん。と言った疑問・恐れを解決するためじゃないでしょうか。

そして、宗教が人間の精神活動に深く関わって来るのも、特に人間死んだらどうなるねんと言う部分において、体は朽ち果てて、やがて土に返りますが、謎なのは魂、意識、精神、心の行方だからだと思います。その部分がどうなるか、天国か地獄に行くか、生まれ変わるのか、その辺は色んな考え方がありますが、とにかく目には見えないが、デカルトが「我思う故に我あり」と言ったように、人間の存在の根幹を為す部分です。その大切な物が死を契機にどうなるのか、その回答を求めるために信仰や宗教が発生したのだと思います。

人間が苦楽を感知するのは、体だとしても、認識するのは心です。死の延長線上に、心は存在するか、そして苦楽はどうなるのか。人間は元々、自然の中では弱い存在だったと思います。文明が発達して、随分、生きていくのが楽になったと思いますが、その文明の恩恵を蒙って比較的自然の脅威から守られて快適に過ごせるのは、21世紀の今でも全世界の1/4以下の人間ぐらいじゃないでしょうか。生きている間の苦しみや不条理を、死後の幸せで補完しようとする心情はごく自然に発生する物だと思います。そして、死後、肉体が朽ち落ちて、ボロボロに成っていくのを見て、その反動として精神は永遠に続いて欲しいと考えるのもごく自然な発想だと思います。*1

そして、精神が永遠である事を願う心情とこの世界はなぜ出来たのかと問いに対する考察から、神の概念が出来たのでしょうね。自然を含む生死を越えた世界に於いて、不条理を克服し、良心や善を象徴する超越者しての神が。人間は弱く、不完全な存在であると言う事を歴史の最初の頃の人たちは十分自覚していたんだと思います。個人の精神活動において、この神の真意を追求し、そこに精神を近づけようとするのが信仰だと思います。同じ信仰をもつ者がその価値観を共有するための体系的な教えとそれを実現するための互助組織のあり方が宗教と言う事になるのでしょう。

もう一つ、別の観点から宗教について考えてみます。人間の意識の構造ってどうなっているのでしょうか。人間が自分を自分と認識するのは、自我があるからですが、人間の意識は自我によって、一人一人独立した存在なのでしょうか。最近、母親の心の病と対峙して、二人精神病にはまって危うく気が狂いそうになったり、臨床心理学の勉強をしたりしているのがきっかけだと思いますが、どうもそう簡単な物ではないらしいと実感する事が多くなりました。要するに、人間の意識はどこかでつながっていると言う考え方です。ユングなどの表現を借りるなら、人間の意識の構造は階層的であり、表面的には個々の人格に独立して存在しているが、深層に於いては一つの世界を共有しているという考え方です。*2

この考え方を前提に話しを進めますね。多分にここから先の表現はユングの物をかなり借用しています。人間の意識は多分に

表面 ←→ 深層
個人 ←→ 世界(社会)
分化 ←→ 同一化

という構造です。信仰は個人として、精神を神に近づける行為ですが、精神の奥深く、魂の領域では意識は自我の境界が相対的に薄くなり、いわいる集合意識*3になってきます。要は一人では手におえなくなる領域になってくると思うのです。先ほど「(特に死生観に基づく)価値観の実現のための行動様式」と書きましたが、これは平たく言えば、冠婚葬祭、儀式のことです。人はこの集合意識の部分で神に近づくために、儀式を行うのだと思います。人は祭りでもロックバンドのライブでも良いんですが、一体感を得る事で昂揚感を覚えますよね。その昂揚感は単に脳の中にエンドルフィンが増加していると言う以上に、そこから精神の部分で文字通りつながりを再確認して、神の存在への接近につながるのではないかと思います。*4 そして儀式には必ず何らかの社会的な組織が必要になります。この辺が宗教の存在理由の土台ではと思います。特に誕生と死の儀式については、魂が見えない領域からこの現世に来て、あの世に帰って行くと言う意味で、非常に重要な事のように思えるのです。そして聖職者を始めとして、多くの役割を持った人の協力が必要になります。

もう一つ、カルト宗教の問題ですが、人が集まって、行動面でも精神的にもつながって行く場合、どこでつながって行くかだと思います。mixi の日記のコメントにも書きました。人間は不完全で、狂気を秘めた存在だと思います。その度合いは人それぞれでしょうが。カリスマと言う言葉があります。今では随分安っぽい言葉になりましたが、要は精神的なつながりを形成する上でコアと成る人格を有した人のことです。尋常でない影響力と能力を有した、要は神の代理人となる人間の事ですが、その尋常でない部分がどこにあるのかなんでしょうね。カリスマが狂気によって人を惹き付けてしまうなら、それがカルトの発生原因のような気がしています。先に述べた集合意識ですが、そのあり方は精神のどのような側面*5で繋がるかによって、文字通り、悪魔の軍団から、聖者の行進まで様々な様相を取ります。それをどのように制御して悪魔の軍団を避けて、聖者の行進に持って行くのか、一見、不合理に見える宗教的な戒律や儀式もそうした観点で見直すと実は風土に合致した歴史的な蓄積による民族の智慧として評価できる事もあります。*6 そしてその核となる事のが、本来の聖職者の存在意義と役割なんでしょう。*7

取り留めなくなって来ましたが、とりあえず一般的な宗教の定義並びにその存在のあり方について書いてみました。但し、こんな事を言うと何なのですが、

私自身にとっての信仰や宗教のあり方とは実は大きく違う部分もあるんですね。*8

それについてはまだどのように表現したらよいのか分からないし、整理すべき内容も多岐に渡るのでので、機会を少しずつ書いてみたいと思います。とりあえず、前にも挙げましたが、私がこの文章を書く上で影響を受けた本を一冊紹介しておきます。感謝を込めて。

宗教と科学の接点

宗教と科学の接点

*1:これを極端で狂った方向で実現すると、多分、神風特攻隊や自爆テロに成るんでしょうね。

*2:ここでは、心、魂、意識、精神などの言葉を明確な定義を省略して使い分けていますが、ある程度文脈に応じて使い分けてはいるつもりです。

*3:ユングの表現を借りれば元型と言う事になりますか。

*4:この辺、心と身の関係をどう捉えるかは、唯識から唯脳論と様々な考えがあり、その違いによって様々な考え方が出来るのですが。

*5:ソフトウェア工学的に言うなら、アスペクトと成るでしょう。

*6:当然ですが、人を不幸に貶める不合理かつ不条理な戒律や儀式もあります。それが人間の不完全さなのだと思います。

*7:最近では、そうした事を自覚している聖職者も随分減ったように思えますが。

*8:因みに、上記に書いた神の定義を以ってするなら私はむしろ無神論者に近いかもしれないです。