[こころ] 「死」と対峙する儀式

報道官は1日朝の声明で、法王が31日午後7時17分(日本時間1日午前2時17分)に、死期が迫った信者に行うカトリックの儀式「終油の秘跡」を行ったことを明らかにした。1日朝には意識もはっきりして落ち着いた状態で、同午前6時からは毎朝の習慣であるミサを行ったという。

 容体が極めて悪化しているにもかかわらず入院しないことについて、報道官は「自室にとどまりたいという法王の意思を尊重した。自室でも完全なケアが受けられる態勢になっている」などと説明し、「こんな状況を見るのは初めてだ」と声を詰まらせた。朝日新聞 asahi.com、 2005年04月01日(金) より引用。


サンピエトロ広場で行われた祈りでは、アンジェロ・コマストリ司教が信者を前に「今夜、キリストは法王に扉を開く」と話した。カトリック・ローマ司教区のカミロ・ルイーニ枢機卿も「(法王は)すでに神とまみえ、神に触れつつある」と語り、死期が迫っていることを示唆した。

産経新聞、4月2日より引用

先日、宗教に対する考察の記事を書いた。その中で、宗教の役割として、儀式を執り行うための互助組織、特に死を迎えるための儀式が重要である書いたが、今回のローマ法王崩御の際して、その重要性を目の当たりに出来たような気がする。死に対してどのような態度で臨むのか、それをどのように受けとめるのか。キリスト教の世界観とそれに基づく秘儀も含めた儀式が今回、厳粛に執り行われている。魂の指導者として、その死が個人としての死を超えて、社会的に大きな意味を持つヨハネ・パウロにとって、こうした儀式を通じて、死を受容して、キリストに導かれ、神の元に帰っていく。そしてそれを多くの信徒たちが祈りをもって見守り、共有する。この意味を少し考えてみたい。
死後の世界とその意味について、真摯に語る事も、合意を形成して一つ価値観を作り上げようという雰囲気が極めて薄い日本*1において、これらの儀式の持つ意味をちゃんと捉えようとする意見は極めて少ないだろう。今回の報道を見ても、彼の生前の業績や後継者選びの動向に関する物は多いが、キリスト教において、死をどのように受容していくかと言った観点からの記事は絶無だと思う。それは公の報道だけではなく、個人の BLOG においてもそうである。我々の社会は「死」を見失っているように思える。

儀式を説明するのは難しい。形式的な部分だけをみて、その様式を図示したところで、それは儀式の本質ではない。形式を通じて、何を感じ、どう考え、そしてどのように心をどこに持っていくか。儀式を通じて見えない精神・魂の領域のあり方が本当は大切なのである。日本の伝統的な様式美である「能」や「お茶」を考えてみればよく分かる。形式の向こう側にある作法の意味を現実に関連付けさせる事が出来てこそ、初めてその道が地に足ついた物となるはずである。

今回、ヨハネ・パウロ教皇崩御に際して、祈りを捧げた多くの信徒達は、一連の儀式を通じて、教皇の死と天国への帰還を共有することになるのだろう。そうした儀式を通じて、教皇の死は信徒たちへ死に正面から対峙する事、そしてどのように神の御許へ帰還するのかを体験的に深く学んでいく、そんな気がする。人は生きていく上で必ず迎えなければならない「死」について、このように学ぶ機会は多分に彼らの「生」に何がしか安定の為の土台、基盤を与えるのだろうと思う。要は彼らは魂・意識の奥底で繋がっている*2 彼らの信仰のシンボルである教皇の死を通じて、死の様相・意味を知り、そこに至る「生」のあり方を直感的に身に付けて行くのだろうか。

私達がそうした宗教における一連の流れを、形式的、外面からしか見ないのは、何故なのだろうか。私達を取り巻く社会は「死」をあえて避けているような気がする。人間の生が有限であり、必ず終りがあるが、魂のあり方において、死は多様であり、悲しくも豊かな世界があることを内面から観ていないような気がする。それによって失った物があることすら知る事も出来ない。そしてそれは我々自身の弱さに繋がるのである。しかしそれを見ようとするものはそう多くない。*3

最近、母親が心の病を得て、自分の死について語るのをずっと側で聞くことが多くなった。人が生きて死ぬ事の意味を否が応でも考えないといけない場合も多くなった。残り少ない人生において、意義のある「生」を考えるなら、必ず「死」のありかたについて考える必要がある。残りの人生を空虚に流そうとする母親に対して、それを止めて説得するためにも避けては通れない。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の死を信徒や聖職者達はどのように看取ったのか、なぜか深く考えさせられる。

*1:この辺はものの哀れと情緒的に捉えようとするからだと、言う意見も数多い。だが私はそれだけではないと思う。

*2:この辺は前の記事で人間の意識が階層的であり、深層で集合的な無意識の層で繋がっていると論じたが、その事である

*3:しかしながら、日本人の特殊性とするのは間違いだと思う。歴史的に見ても源信の「往生要集」など「死」について、正面から捉えた思想が伝統としてちゃんと存在する。ただ失われつつあるのだろうかと感じる。