『水からの伝言』について。

最近、『水からの伝言』 という本が評判になっている。賛否両論に分かれているが、個人的には反対である。反対する立場の多くの人が(例えば「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけや書評「水は答えを知っている」等が有名である )大体疑似科学であることを第一義に考えているようだ。(ただし、参考に挙げたリンク先ではちゃんと道徳的な観点からの考察も述べられている。) ただ、私自身は仏教徒であり、輪廻転生といった現代科学では扱いきれない事を、自身にとって事実として受け入れていたりするので、こう言った理由で反対するのはちょっと慎重になるかもしれない。

では、何ゆえ反対するのか、倫理的に駄目なのである。水からの伝言』の論理は大まかにこんな感じであろうか。

  1. 「ありがとう」等、感謝の言葉を水に伝える → 水がきれいな形の結晶になる。
  2. 「呪ってやる」等、憎悪の言葉を水に伝える → 水が乱れたな形の結晶になる。

これの対偶を考えれば、分かりやすくなる。

  1. 水の結晶がきれいな形をしていない。→ 関連している人は感謝の気持ちが無い。
  2. 水の結晶が乱れたな形をしていない。→ 関連している人は憎悪の気持ちがない。

どう考えても、おかしいだろう。
中国の漢の時代や日本の平安時代、呪詛の護符を競争相手の庭先に埋めて、「帝を呪っている」と言いがかりをつけて、競争相手を冤罪に落とし込むといった手口で随分、犠牲者が出たが、基本的な考え方は同一であろうと思う。より歴史を近くするならヨーロッパで黒猫を飼って、森のふもとに住んでいるという理由だけで、魔女として火あぶりにされた犠牲者が続出した件であろうか。また昨日 NHK でアウシュビッツでのユダヤ人虐殺に関するドキュメンタリをみたが、ポーランドのゲットに閉じ込められたユダヤ人は圧政により、貧しく、暗く、惨めな様相を呈していた。そうしたユダヤ人というレッテルと外見だけで「彼らの存在」は段々嫌悪される状況となり、ついには「地上から抹殺せよ、毒殺OK」と成ったとおもう。水の件のような安易に外見で倫理的な事項について判断するというのは、最悪の場合はこうした悲劇に繋がりかねない。*1

結局、倫理的、宗教的に見るなら、これは「水」という無機な物質に、精神性や霊性を与えて解釈するからであろう。本質的には水の一件はいわいる偶像崇拝である。キリスト教イスラム教は偶像崇拝を極めて忌諱して、これを「人格を貶め、霊魂を悪魔に売る所業だ」という価値観を持つ。結局、神に近づくには人間自身の精神的な、霊的な活動を通じた内面の努力*2 以外にはありえず、偶像崇拝は、そうした神に繋がる霊的な自身の存在を捨て去る事なのだ。
感謝の言葉を掛ければ、水がきれいな結晶になるといった安易な奇跡 *3に身をゆだねることは、思考停止をもたらす。その結果、人は実にそこの浅い愚かな価値観に支配され、愚行に走り、結果的には自身の欲望に流されてしまうという事だろう。それを人は迷信と呼ぶ。迷信は自他ともに関わった人間に不幸をもたらすと思う。

「癒し」ということが、今の日本の社会では無上の価値のある事のように言われているが、安易なマヤカシの奇跡に「癒し」を求めると言うのは非常に危険だと思う。最近、「スピリチャル」や「精神世界」という言葉が流行っているが、個人的には非常に違和感を感じる。それは至る所にこの「水」への迷信と同じ落とし穴があるにも関わらず、あまりにも無自覚に見えるせいかもしれない。

*1:ここをみると、この本の著者はスマトラ島の大地震の犠牲者にたいして、「お水さまのたたりだ」と言い放ったらしい。最悪。

*2:平たく言えば、疑問に思い、理不尽に悩み、矛盾に苦しみ、耐えて、考え抜いて、光を見つけると言った感じであろうか。

*3:科学的にみるなら、それはマヤカシだと言う事なのだが。