格子の意匠

以前、モンゴルには、魚をあらわす語彙は日本語の何十分の一しか存在しないが、馬に関する語彙ははるかに多いと何かの本で読んだことがある。その語彙の差は、日常生活でどこまで細かく対象を認識しているか、その関心の度合いによるものなのだろう。

街中を歩いて、ふと格子の文様に興味を覚えた。縦と横の単純な組み合わせであるが、幅や交差する位置、材質、色などで、様々な姿・形があるものだ。

遠めには、よく似た景色が連なっているように思えるが、近くでよく見ると、色々な表情を見せてくれる。路地裏を通り過ぎて行く中で、その違いに気づくには若干の集中力、注意力が居るかもしれない。ただそれはそんなに難しい話ではない。要はゆっくり歩けばいいだけの話である。

聖書には「はじめに言葉があり、言葉は神とともにあった。」と書かれているそうだ。しかし本当にそうなのだろうか。虹は七色とあるのは、日本人だけで、場所が違えば、五色、四色な地域もあるらしい。言葉を通じて、ものを見れば見えてくるものも違ってくるという意味で、言葉が先な部分もあるのかもしれない。ただ興味や気付きがなければ、そもそも言葉や名前を考えようとする動機付けにもならないだろう。だから、何か言葉の先に来るものがあるような気がするのだ。


路地裏に、朧車やろくろ首と言った物の怪を描いたTシャツを売っている店があった。面白いとおもったが、それを着て街中を歩こうかと思うまでには、ちょっとした勇気が居ると思う。そう言えば、言葉は物の怪のような存在も表現することが出来る。そうした言葉は、いったいどのような興味や気付きによって生じたものなのだろうか。空の浮かぶ様々な形の雲の多くには、すでに名前がついているように、すべての感覚を研ぎ澄ませば、移り変わりの中で一瞬にしか見えないものでも、それは現実となるのであろうか。

竹細工、持つ手に涼し、団扇かな

考葦子