パン屋のおじさん、最後の配達。

母親に付き合って、紅白歌合戦を見ていたが、司会が平和へのメッセージを読み上げて、布施明が「イマジン」を歌いだしたあたりから、なぜか居たたまれなくなり、そのまま部屋に入ってしまった。昨日、同じ NHK の ETV 特集で、「2006年夏 戦場からの報告 〜レバノン・パレスチナ〜」という放送をやっていた。何げなく見始めたが、非常に心が痛んだと同時に、それが直視しなければいけない現実だと思った。想像で何がわかるというのだろうか。漠然としたユートピアを想像してそれを共有したところで、結局はどこにも至らないだろうと、少しやるせない気分になった。
確か、レバノン南部での話だったと思う。最近のヘリコプターやロボット飛行機による空爆は、非常に精度の高い、ピンポイント攻撃をはるか上空から行うことが可能で、まさに狙撃に近い攻撃が出来るようになっているらしい。イスラエル軍がゲリラ的にヒットアンドランで、狙撃を繰り返して、次々と犠牲者を出していく様子は、「杞憂」という言葉がそのまま、しゃれにならない状況を作り出している。

ロボット飛行機による自動攻撃は高機能センサと最新人工知能の技術によって、非常に高い標的補足能力と命中精度を誇る。ただロボット故に無差別に攻撃を行う。ヒズボライスラエルも高度に訓練された兵士からなる軍隊であり、そう簡単に補足されたりしない。また皮肉にも 2001.9.11 以降、テロ組織の根絶と言う名目で、民間人をテロリストの隠れ蓑と呼ばわり、無差別に攻撃してしまう風潮も出来てしまった。つまり、高精度ハイテク兵器の標的はいつも民間人なのだ。つまり、兵隊の姿も無く、ただ空から突然、殺意が落ちてくるような状況がレバノン地元の住民を恐怖のどん底に陥れているのだ。

放送は現地に入った日本人のビデオジャーナリストによる撮影を流しており、非常に臨場感のあるものだった。その中でも特に印象に残ったのは、道路脇に狙撃空爆で車体の前側が黒焦げになったワゴンが放置してあり、中から頭部の吹きとんだ中年男性が担ぎ出され、そのまま遺体袋に収められるシーンだった。特にワゴンの後ろ荷台には、中東でよく見られる種無しの丸く大きく平らなパンが、散乱していた。

ただのパン屋さんだったのだ。

その生活感のある光景に、すごく胸が痛くなった。危険は承知だったろうが、生活がかかっているし、お客も待っていると思ったのだろう。パン屋さんは多分勇気を振り絞って、車を走らせたのかもしれない。いつもおいしいと食べてくれるお客の顔を思い浮かべていたのかもしれない。彼にも養うべき家族がいたのだろう。子供がかわいいと思うのは民族に関係なくどこでも同じだと思う。彼にも多分子供は居ただろう。*1とにかく彼はパンを運ぶために、運んだパンを待っている人たちに届けるために、車を走らせていたのだ。ただそんな事はロボット飛行機には知ったことでは無かったのだろう。余りも無機質で冷たい現実だと思うのだ。

イマジンでジョン・レノンは「天国や宗教や民族のない世界を想像してみよう」と歌っていたが、今思うにそれは余りにも脳天気で、現実を知らなさ過ぎるのではないだろうか。少なくとも植民地支配より前のエルサレムでは、イスラム教もキリスト教ユダヤ教も同じ街で共存し普通に生活していた事実を知らなかったのだろうか。放送の最後で、ビデオジャーナリストの方々が、紛争地帯の生活の現場に入って現実を知り、現地の子供からお年寄りまで、住民の目線で物事を考えなければ、何も解決しないと話していた。確かにそう思う。武器を使う人間や兵器を肯定する人間は、往々にして弱い立場の人間の痛みとか悲しみとか、想像すら出来ない事が多いと思う。

正月三が日は何とか休めたが、相変わらず仕事の方はトンネルの中である。ただビジネスの(合理性の無い場合でも)ルールが全てに優先して、結果的にしてデスマーチに陥ってしまった中で、人としての感情や気持ちとか押し殺していた部分もあったと思う。しかしビジネスも人の営みである以上、そうした悲しみや喜びといった部分も大切だと思う。例えば、平和の為に何が出来るなどと言われても、多分、今の自分がそこに貢献できることなんてほとんど無いと思う。ただ、人としての感情や生活に対する想像力を失なわず、毎日を過ごす事ができるなら、何がしかそれが開始点になるような気はする。

来年は、あと一時間もしないうちに来るが、生活の中で「情」を大切にして行こうと思う。

*1:同じ放送で、空爆や不発弾で家族を失って悲しむ人たち映像が多く流れていたせいもあるだろう。