カエラ君

実は、木村カエラのファンである。会社で「芸能人で誰が好き」と聞かれたら、即答でそう答えていた。但し、そう熱心なファンではない。アルバムは買うけど、シングルも買わないし、テレビはあまり見ないので、CM のタイアップ曲もまだ聴いたことがない。忙しいからライブにも行かない。ただ異性として魅力的というよりも、この子の持っている雰囲気に自分と同じ匂いを感じるからである。最初にカエラ君を知ったのは NHKトップランナーだったが、最初に見たときから、先入観かもしれないが、なぜかそう感じていた。年齢も性別も職業も違うが、なにか同類項のように思える。彼女の詞を聴いていると、案外と思索的、内省的なものもある。感性だけであの詞を書いているなら、案外と彼女は哲学者の素養があると思う。

今日の Kaela★Blog のエントリーはそういう意味でそういった彼女の一面を垣間見たような感じ、いいエントリーだったと思う。ただ気になったのだが、「オーラの泉」を見て、「大我」と「小我」ということを放送の中で説明していたらしいが、個人的には、疑問に思う。

先日、オーラの泉を見ていて、すごく胸に刺さった言葉があります。
それは大我(タイガ)と小我(ショウガ)。
大我は相手を愛する気持ちをさします。
これは毎日努力しないと付かない気持ちだといっていました。
人と接する中で失敗を繰り返し、そして相手を思い改善する気持ち。それはいわゆるポジティブに進む気持ちだと。
それと対象に小我は自己を愛する気持ちで、人に分かってもらえないと、回りを責める気持ちのことらしいです。
それは自分の事しか考えていないので、人との関係を改善しようとする気持はないので、自分自身もネガティブな気持ちが増えてしまうと。

Kaela★Blog 2007.01.30 Tuesday 「最近思うこと」より引用

個人的に、愛する対象が「自分」か「他人」かと、心境的にポジティブである事、ネガティブである事はあまり関係の無いことだと思う。西洋の思想では、自己愛を利己主義と結びつけて考える物もあるし、一見似ているが、全然違うだろう。極端な例であるが、中東の紛争地帯で最近、自爆テロとか多発しているが、彼らは自己を愛することを放棄して、全てを神にささげるが故に、あんな事が可能だと思うのだ。もう少し身近な例で行けば、子供を愛するが故に子供を抑圧している親なんかの例がそうかな。つまり自己愛の対極にあるのは、他者への愛ではなく、破壊的な自己否定の感情だと思う。

自分としては、「自分を愛し、大切にして、自分の幸せを求めること」の延長線上に「相手を愛すること、周囲の幸せを願う気持ち」があるのが理想かな。その方が肩の力を抜き、リラックスできて、より自然だと思う。*1 まー確かに努力は必要だけど、「自己犠牲」を前提に、他人を愛するように気持ちをもって行っても、安易な自己犠牲の裏側にあるしつこい「自己嫌悪」の感情が結果的には相手にプレッシャーを与えるだけで終わることも多いように思う。と同時に「自分を肯定する」ことが出来て初めて、相手の価値を認めることが出来るんではないだろうか。

ちょっとお説教ぎみになったが、そんな自分の考えを不意にカエラ君に伝えたくなった。ただ、Kaela★Blog、スパムトラバを防止するためにトラックバックを受け付けなくなって久しい。少し残念である。

あと、同じエントリーの中で、カエラ君は「さくらももこ」のエッセイを読んで、「一番共感したのは、人の死を体験し、想像し、毎日寝る前に布団の中でないていたこと。」と書いていたが、そんなカエラ君に、最近読んだ小説を勧めてみたい。元々は10代の少女向けに書かれたものだから、読みやすいし、人の死をテーマにしているが、それをポジティブな結末に持っていく文章力はなかなかのものだと思った。以下に示すとする。さて、どうやって伝えようか。こればかりは確率は低いが偶然を待つしか無いだろうな。この本の感想とか、そんな話題で一度彼女とじっくり話をしてみたいものだ。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

*1:この辺の元ネタはこちらだったりします。