[つれづれ][こころ] ひまわりの種を植える人々。

NHK 2チャンネルに人間ドキュメントと言う番組がある。今日、「はるかのひまわり」という題で放送していた。阪神淡路大震災で10歳の女の子を亡くした家族のその後9年を描いたドキュメンタリーである。震災で無くなった女の子がかわいがっていた鸚鵡のえさのひまわりの種が翌年の夏、更地に成った潰れた家の後に芽を出して花を咲かせ、埋め尽くしたと言う逸話から始まる物語であった。

一面に咲くひまわりの花に亡くなった女の子から「つらい事にも負けずに頑張って生きて」というメッセージを読み取って、以後、そのひまわりの種をあちこちに出来た更地や街路に植えて行く運動を始めた近所のうどん屋さん。家族を失った悲しみからなかなか立ち直れずに目を背けバラバラになる家族。呼びかけに応じひまわりの種を植える地元の人々。その逸話を聞いて「はるかのひまわり」の絵を書いたアメリカ人の画家、そしてその絵をきっかけに立ち直りを模索するなくなった女の子の姉、そしてその後、5年以上の時間をかけた家族の再生。こうした日常を淡々を描いていくドキュメンタリーは何がしか目を離せない、引き付けるものがある。現実の力であろうか。決して物語は劇的には進まない。誰も何も演じない。そうした中にこそ浮かび上がってくる物がある。

人は何ゆえに咲き誇るひまわりに何らかの意思を見出したのであろうか。枯れても種を残して、次の夏にまた大きな花を咲かせるひまわり。単に種を植えてひまわりを育て続けて行くという行為の中に、花を咲かす以上の物を見出して多くの人々が手をつないで行く。「つらい事にも負けずに頑張って生きて」という亡くなった女の子からのメッセージを多くの人が共有し、新たな意味を付け加えていく過程を見ていると、何がしか人には運命の過酷さを克服するために、偶然に咲いたひまわりの花に象徴的な意味を加え、それを生かしていく能力が確かに普遍的に存在するような気がする。

私は占星術をたしなみ、時々自他の運命鑑定を行う事がある。こうした占星術はこうした偶然(占盤を立てると言う行為)に意味付けを行う象徴の力を未来の予知という形で活用するものである。行き過ぎた象徴化・シンボリズムによる弊害も有ると思う。思考停止や主体性の欠落など「癒し」を求めるあまりにそうした占いにはまっていく人も数多く見てきた。とことん現実を追求する中国人が生み出した風水のように、部屋や家具、調度品はそのレイアウトまでに意味付けを行い、運を呼び込もうとする行為には少しあきれた物を感じる。またその逆に単純な因果律に則った、最近流行りの「幸運を呼び込む**の習慣」などにはものすごく違和感を感じる。そう生きているという実感を感じられないからであろうか。

ただ、意味的なシンボリックな世界も単なる迷信ではないと思う。単純な物理的世界観、因果論を超えて私たちは意味を問う事の出来る魂の世界に生きていると思う。女の子を震災で亡くした悲しみから逃れるため、現実から目を背けてきた家族に、根気よくひまわりの種を植えようと誘いかけてきたうどん屋さん。種を植える震災犠牲者の遺族との会話から少しずつ現実を向き合う力を得ていった女の子の姉。一つの偶然を生かして、それを生きる力につなげるためには、やはり人生に対する真摯な思いや勇気、それを支える他者に対する深い思いやり等が必要だと思う。自分自身、孤独と向き合い、何がしかの決断をしないといけない時に占盤を組む時がある。やはり勇気は居るし、占盤の結果から自分の運命と言う意味での客観的な事実をくみ出すのには公平で冷静な判断力が要求される。そう魂が試されるのである。

今日はいい番組を見たと思う。