[こころ] 無為無策

通常、「無為無策」と言う言葉はあまり良い意味では使わないと思う。しかし本当に「無為無策」を通すには実はかなりの見識、度量が要求されると思う。

三国志に出てくる諸葛亮孔明の先輩に水鏡先生と言う人が居たが、この人は誰に何を言われても「好々」と返事をして決して断ったり、嫌な顔をしなかったらしい。借金の保証人も、詐欺紛いな依頼事も、何でもかんでも「好々、好々」。そのお人よしに対する家族の苦言にもニコニコと「好々」と答えて、決して動じなかったらしい。これは相当な見識と度胸、胆の据わりが必要であろう。

人の想像力や理解力には限度がある。荘子は「この世の中に知っている事よりも知らない事の方がはるかに多い」と言っていた。人間往々にしてその知らない事に遭遇した際、特に不合理や不条理な事に対しては、どうしても動かされてしまう。五里霧中となったときには見えるものを探して、どうしても自分の理解できる範囲内で理解しようとする。また感情で納得の行く答えを探して、うろたえてしまう。無為では無く、無駄な事を為してしまい、無策ではなく、無駄な策を労じてしまう。文字通り徒労に終わってしまう。要は台風や大水で堤防が決壊しかかっている時に何事もなく過ごすには大変な労力、エネルギーが必要なのである。

最近、身の回りにそうした不条理や不合理に振り回されている人が少なからず居て、それなりに大変である。老子の言葉に「政の要諦は無為にして治める」と言う意味のことを言っていた。そういう状況に巻き込まれるようなって、その言葉の本当の必要性が理解できたと思う。誰かの心の部分で起きた台風や洪水は言葉や雰囲気を通じて回りに伝播していくのである。二人精神病*1の例をあげるまでも無く、こうした妄想や狂気の台風、洪水に抵抗するには大変な労力が必要である。またそういった事態を治める為には、文字通りの「無為無策」な態度が必要で、異常な問い掛けに正常に答えるような努力を要する。傍から見れば、アンバランスな又はボケ漫才のようなやり取りであろう。ボケ漫才も5分、10分なら簡単な話であるが1時間2時間は非常につらい。

実際にはどうすればよいのであろう。口で言うのは簡単で理性では分かっていても、感情が精神が悲鳴をあげてしまう事もあるだろう。「度胸」、「胆っ玉が座る」昔の人は妙を得た表現を生み出した物だ。他の記事に瞑想について幾つか記事を書いたが、その瞑想の方の言葉に「意を以って意を制するは難し」という物がある。要は頭や脳だけなく、体全体で対処するのがポイントである。本当の意味での「無為無策」を体得するには内臓の強化が大きく絡んでいるようだ。瞑想にはその為の技法・体系が幾つかあるが、書き始めると長くなるし、今はまだ色々落ち着かない事も多いので、また別に記事を起そうと思う。

*1:精神病の治療を行っている際に治療側が患者の妄想や狂気に感化されて、あたかも精神病が伝染したように治療側まで病んでしまう事。