無鬼論

人は自分が見たもの、聞いたものについて、その存在を否定されると多分に腹立たしい思いに刈られるであろう。信じられない事、不合理な事、常識から外れた事。大人になって、世間をしり、世渡りが上手になるに付け、人は否定する側に回る可能性が高くなると思う。習慣に生きると言う事は、予定調和の世界を生きることであり、自己の認識に世界を合わせながら、生きていくと言う事なのだろうか。

中国にこんな昔話がある。

ある所に秀才な書生がいた。彼は科挙を受けるために都に旅をしていた。
ある晩、泊まった宿に出くわせた中年の男が彼に親しげに近づいてきた。
男は書生が科挙を受けるために都に行くのだと聞くと、「わしも学問は好きだ」と言って、彼に話し掛けてきた。
男は様々なことを書生に聞いていたが、答える書生の秀才ぶりに中年の男はいたく喜んで話を続けた。
そのうち、男は書生にこう尋ねた。

「おぬしは幽霊は存在すると思うかね?」

書生は「否」と答えると、男は「幽霊はいると皆が思っている」に何故そう思うのか、書生に反論するように問い掛けた。
書生はさすがに秀才であり、頭も切れる。男の主張に非の打ち所の無い反論を行い、見事に論破してしまった。
そうすると男は急に顔を青ざめて、下を向いたまま押し黙り、しばらくして書生の方をぎっと睨むと

「確かに論議ではわしの負けじゃ。しかし何故にわしの存在を否定されなければならんのだ?」

そう大声で叫ぶと、中年の男は目の前で煙のように消えてしまった。

哀れ、書生はその後原因不明の病を得て、その地で客死してしまったそうな。

最近、母親と話をしていて、この物語を思い出した。確か「無鬼論」という題だったはずだ。母親と私では同じ時間を共有しているが、違う世界を認識している。だから話がかみ合わない事も多い。演技である程度、合わせはするが限度もある。慰めの言葉が却ってあだに成る事がある。母親の苦しみは大きく分けて以下の2つである。

  1. (彼女の世界の中で)自分が追い詰められた存在である事。
  2. その苦しみを誰にも理解されない事。

最初の苦しみは根拠の無い事であり、母親の心の中で拡大再生産されているものである。だから、傍から見ていると何の根拠も無いし、理解に苦しむ事になる。それが2番目の苦しみにつながるのである。しかし、心の中では追い詰められているが故に、人の親切を素直に受け入れることが難しく、その親切が自分への無理解に曲がって解釈されてしまう。厄介な話である。そう最近の口癖は「現実を理解して!!」である。理論整然と説明しても無駄なのである。元々、不合理が土台にある状況では、細かな設定が変るだけで、根本的なことはそう変るわけも無い。次々と新しいシナリオが出来上がっていくのである。それに「無鬼論」の話ではないが、やはり母親もそう言った苦しみが続くと感情的になる。私にもつらく当たってくる。私もついそうした口調に対してに感情的になりそうになる。困った物だ。家族なら本当は困った時に助けあうべきなのだろうが、お互いにいがみ合うとは。

最近読んだ瞑想の本*1にこんな一節があった。短いが非常に印象に残った。

四等心を念ずるを是を瞋恚を止する薬と為し

確かに今のまま、無防備な心の状態では、瞋恚(怒りに燃えて、全てを破壊しようとする心情)に駆られてしまうだろう。何がしか歯止めを掛け、そこから脱する方法が必要である。上記はお釈迦さまの言葉だそうだ。四等心。要は4つの心構えである。載っていた経典は瞑想に関する物である。しかしそうした瞑想の技法だけでなく、そうした教えの方に今は何がしか惹かれるものがある。ただ瞑想だとか、教えだとか、戒律だとか分類は後世に行われた物であり、瞑想の話の中に日常の心構えや教えが説かれていたとしても、お釈迦さま自身は状況に応じて、相手が道を成就する上で必要な事を教えていただけである。やはり瞑想は瞑想だけでは成り立たないと言う事なのだろう。四等心、後に四無量心と呼ばれるようになった言葉である。何を以って四となすか。

  1. 「慈」:相手に喜びを与える心
  2. 「悲」:相手の苦しみを取り除こうとする心
  3. 「喜」:相手の喜びを共に喜ぶ心。
  4. 「捨」:相手に与えた恩をきれいさっぱり忘れ去る心。

「慈悲深い」の「慈悲」も、お寺にある喜捨箱の「喜捨*2も実はこの四無量心が元になっている。深く意味を追求すれば実はもっと色々書けるのであるが、要は相手を思いやり接すると同時に、その結果は捨てなさいという事である。さすがに良く出来ていると感心する。「慈」「悲」に「喜」「捨」の2つを付けているのは非常に人の性をよく理解していると思う。普通、「慈悲」というと何がしか、上から物を見るような態度を早期させるし、実際に「慈悲」を実践するというのは、恵まれた人がそうでない人に施すといった感じがあるだろう。それを「喜」によって同じ目線・立場に立たたせ、「捨」によって相手の自立を促し、自分も相手を思い通りにしようと執着する心から自由になる。また、そうした心の指針が有るからこそ、瞑想もまた生きて来るような気がする。前に瞑想の基本は「止」と「観」であると書いたが、「観」によって、本当の意味での「慈」と「悲」は何かを探し、相手の状況を見て「喜」に移り、「止」によって、相手に対して恩を着せる心を押し止めて、「捨」に向かう。

結局、母親は記憶の世界に生きているような気がする。いつの記憶かは分からない。追体験のような気もする。心の奥底、潜在意識か深層意識は分からない。本当に目には見えないものに怯えているし、その怯えに何がしか理由をつけるために、訳の分からん事をいっているような気もする。表面的なことは、そう、どうでも良いのである。記憶が有ると言う事は、やはりその元になる何がしかに体験があったと言う事であろうか。*3その時の状況を推し量って、心情を理解する。それが一番なような気もする。

今日は外出する前に、「X'mas なのに、なんか惨めだね。」と言うからさ、
「じゃ何かケーキでも買ってこようか。」と言う事になったんだ。
結局よくある事だけど、母さんはお腹の調子が悪いと言う事で、ケーキは明日にお預けと成ったんだけど、
「少し味見がしたい」と言うからさ、
少しクリームの部分を分けてあげて、それを舌にすると、
「おいしいね」と喜んで、「これは何で出来ていて、何が入っているのかな」。とか嬉しそうに考えていたんだ。

結局そう言う事なんだろうと思う。なにが間違っていて、何が正しいかなんて、世の中解らない事も多い。それよりも一日一日、小さな喜びを見つけて行こう。少しでも苦しみを和らげて行こう。そうした積み重ねが大切なんだろうなと言う気もする。正しさに固執して結局、呪われて死んでしまった書生になるより、私は不合理をそのまま受け入れてでも、人の心情が理解できるようになりたい。

心の底にある不合理な物なんて別に母さんだけでじゃないだんよね。・・・・・・
むしろ僕の方が大きいんじゃないかって思うんだ、最近。・・・・


(京橋・京阪モール別館 1F COCARDE のモンブランケーキ。(X'mas 仕様))

*1:釈尊の呼吸法―大安般守意経に学ぶ

*2:と言っても今の喜捨は文字通り、喜んで自分の財貨を捨てて布施しなさいという意味に変っているが

*3:それがいつなのか生まれてからの記憶なのか。実は本人のものなのか、その辺は定かではない事も多いと思う。この辺は色々とあるので、また別途、記事を起こしたい。