個性

先ほど、昨日の新聞を読んでいるとこんな記事があった。

・・・土井隆義『「個性」を煽られる子供たち』(岩波書店、2004年)は社会が子どもたちに対して、「本当の私」を性急にさがすよう追い立てている病理を鋭く指摘している。「本当の私」に「出会いなさい」という『心のノート』なんかは最悪である。「自分らしさ」を急いで見つけようとして、子供たちは、手近な消費空間・情報空間をさまよわされることになる。・・・・
平成17年1月17日 日本経済新聞、19面「今を読み解く」東京大学助教広田照幸 より抜粋。

大学2年生の頃、教養科目に「哲学」の授業を取っていた。人数の少ないこじんまりとした授業であったが、先生の話が面白かった。ちょうど共通一次*1の前の頃だったが、こんな話をしてくれた。

「君たち、大学が今、受験戦争を勝ち抜いてきたガリ勉ではなく、個性豊かな学生を取ろうとして、推薦制度の拡充や、考え方を見るための小論文重視とか、いろいろ改革をしているがどうだ? 私はあーした取り組みははっきり言って無意味だと思う。」
「個性豊かな学生をたくさん取りたいなら、何と言っても共通一次試験だけで全て決めてしまえばいいんだ。」
「考えても見なさい。推薦の面接だって、ある程度、受け答えの訓練させすれば、大抵はそつの無い模範解答が出来るようになる。小論文もしかりだ、自分の意見を述べるための小論文なんて、結局、合格するための小論文に変るんだよ。」
「『マークシート方式だけだと、運よく合格する者も出てくるだろう。そうしたら大学での勉強についてこれないので問題だ』、何を言っているんだ。そういう奴に限って個性豊かな奴が多いんだよ。それに十分な学力で合格した奴でも、勉強さぼって、落伍して行く奴だって、けっこういるじゃないか。」
「だいたい人の個性なんて、型にはめて管理しようとする事自身間違いで、そんなものを基準に試験をしても、結局、自分たちの価値観にあった人間だけを選んでしまうんだよ。それだったら、主観の入りようの無いマークシートのみが一番。運だけで合格するような訳のわからん奴も入って来た方が、個性豊かな奴はそろうと思うな。・・・」

測りようの無い物を、無理に測ろうとすれば、結局何を見ているのか訳が分からなくなるのは、どこの世界でも同じような物なのだろう。

第一、個性って何?

人より目立つ事が、個性なのか、人と違う事が個性なのか。

本当の自分と言っても、自分って一体何?

大人だって、わかっていない事が多いんじゃないかな。多分。私も今でも迷う。

・・・もう一つ考えられるのは、性急な「私さがし」を子どもたちに求めないという方向である。
「自己」とは長い時間かけて社会的に作られるものだと、ということを子どもたちに理解してもらう必要がある。
学生時代に「自分とは」悩んだ人が、仕事に打ち込み家庭を持って一生懸命生きてきて、ある時ふと、かけがえのない「自分らしさ」に気づく、といったことは、多くの大人が経験してきたはずである。・・・

平成17年1月17日 日本経済新聞、19面「今を読み解く」東京大学助教広田照幸 より抜粋。

「個性」って言っても他人のそれは、結局は他人事なのだろう。「本当の私」に「出会いなさい」というが、「偽りの私」というのは何なのだろうか。そのような問い掛けをする前に、自分自身で「本当の私」をさがした上で見本を示すのが、誠意ある態度のように思えるのだが。世の中には自己啓発の書物やセミナー、Web Site がごまんとあるではないか。

*1:今のセンター試験のこと