なつのそら。

夏の日に、空を見上げると、まぶしくて、目を細める。


少しおいて、慣れてきた目に見える、夏のそらは、さまざまな表情を持っている。

そんな事に気が付いて、じっと空を見上げている事が増えたと思う。

時々、空を見て、気に入った表情を見つけると、携帯電話に収めようとするが、中々上手くいかない。カメラの解像度も低いせいもある。しかしそれだけでもないだろうか。人の視覚の解像度は今時の高性能のカメラよりも低いかもしれない。しかし人は流れる時間の中で、光や空気や水の流れを感じ取って頭の中に一つのイメージを作っているのだと思う。その思い描いたイメージを現実からカメラで一瞬にして切り取るには、実はかなりの集中力が必要になると思う。確か最近、読んだ新聞の文化面に、その一瞬を探すため事に、常人の何倍もの労を惜しまない大和路を写し続けてきたプロの風景カメラマンの話があった。

高校3年生の冬だったと思う。新聞広告に載っていたイギリスの画家ターナーの展覧会の広告をみて、衝動的に観に行った事を覚えている。彼は当時としては珍しく、光を、空気を、水の流れを追い求めた画家だった。色彩豊かに光が散乱する瞬間を、空気の流れていく様相を、躍動的に描いた画家だ。確かに走っている汽車の絵の前だった思う。何分もじっと絵の中に入り込んだようにじっと見ていた。多分にターナーがその絵を仕上げるために、ずっと観察しつづけてきた、光の、空気の変化がそのまま重ねるように、描き綴ってあったと思う。そらを仰ぎ、雲が流れていくの観ながら、全身全霊でそうした光景に取組んだ画家の事を思い出した。

家の近所にある、市役所の出張所は随分古い建物だ。建造は、第二次大戦の前であり、西日本で最大級の弾薬貯蔵庫の管理棟だったそうだ。
「杞憂」とは昔、空が落ちてくると心配して夜も眠れなかった「杞」の人の愚かさが語源であるが、この建物の周りには、松が沢山植わっており、先の戦争末期には、文字通り、空から落ちてくる物を心配しながらの日々だっただろう。空から落ちてくる物に怯える日々。「杞憂」という言葉の意味は本当にどこまで正しいのだろうか。

空は今もその当時も同じように、どこまで碧かったのだろう。その碧さは、地球上の何処にいても、多分同じ色なのだろう。空だけはどこまでも平等で有り続けて欲しいと思う。