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最近、会社でコンサルの人と論議する機会があった。いわいる経営コンサルではなく、人材活用を専門にしたコンサルだと思う。その方から、胸に手を当てながらこう言われた。

「失礼ですが、ハムレット*1さんの文章には「アイ」が足りないと思うんですよね。「アイ」が足りないから、人の胸をうつ力が少ないし、行動力に繋がらないと思うんですよ。・・・・」

確かにそうかもしれない。・・・・・「アイ」は足りないかもしれない。
アイ、I、自分。私、自我。胸に手を当てて言うなら「愛」と聞こえるかもしれない。後から考えるにニュアンスからすればそんな意味合いも含まれていたのだろうか。

単なる意見と「私の」意見では、内容が同じでも人を引き込む力、説得力が違うそうだ。「研究開発部門で書く文章は、論文でも特許でも、「I」を出してはいかん文章なんですわ。そういう文化ですから研究部門というのは。」上司がそうフォローしてくれると、少しコンサルさんも苦笑いをしていた。

会議の中で、他の部署の同僚が、MOT*2セミナーに参加して、感銘した事を報告していた。同じ報告でも感銘した事を伝える為か、かならず「I」が入っていた。

「その辺、僕はすごく感銘したんですよ。・・・・」
「これはすばらしいとおもいますわ。・・・・」

実はこうした態度を私は取れない。

「私はセミナー等に参加して、感心したとしても、それを素直に出せないんですよ。」

その会議の折に、そう言うと、みんな少し黙り込んでしまったと思う。なぜだろう。

「会社の技術者の中では、私はアウトサイダーだし、まずそれがどのような意味を持つのか、どうすれば理解されるかを考えてしまうんですよね。・・・」

そんな風に自分で理由付けを話していたともう。と同時にそれが却って人に自分の意見を理解される所から遠ざけていたようだ。しかし会社において独自性を自分の利点にすべく「アウトサイダー」であることを選んだのは自分自身のはずなのに。最近、そうした自分のあり方について考える事が多いように思う。揺れていると言った方が良いのかもしれない。

英語では普通は一人称を「I」と書くが、ある英語圏の詩人は神や自然に対する自我の小ささを常に意識するために常に「i」と書いていたらしい。私も、自分を「I」では無く「i」として扱っている節があると思う。詩人の場合は敬虔の賜物だろう。だが私はどうなのだろうか。他の言葉に混ざれば、「i」は自然と埋もれてめる。私は常に何かから隠れようとしているのだろうか。

ハムレットさんは、物事を受けとめるとまず自分の内側に入って行く傾向があるんですね。」

コンサルさんにそう言われた。思慮深いということで、悪い意味ではないと思う。少し嬉しくなると、その後の会議では、珍しく自分の気持ちを語っていたと思う。人材活用のコンサルさん、いい仕事していると思う。感謝したい。

*1:当然、実際に会社では私の苗字で呼ばれているのだが

*2:Management Of Technology のこと、和訳すれば、技術経営と言う事になるのだろうか。