自己責任の限界。

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著者は一見するとやさしげな「こころ主義」の背景には、市場競争原理主義に基づく個体還元論があると考える。「問題は社会にではなくて、あなたの中にある」と個人の内面に射程を定めるカウンセリングの世界は、「競争に負けるのは自己責任」と言う市場主義の理念ともマッチしているのだ。しかし「わが子を虐待するもしないも、親のパーソナリティに起因した自己責任の問題」という物言いが、親たちの孤独をますます助長していくのは明らかだ。

そこで本来、必要なのは「共生・共存」と言う視点に根差して問題を関係的、社会的に拾い上げ、失われつつある「共同体の感覚」を取り戻すような心理学だと著者は提言し、それに「節度の臨床心理学」という名前を与える。

日ごろ、診察室で「片付けられない? 成人型ADHD注意欠陥多動性障害)の可能性があるだろう」とどんどん病名を増殖させ、個人の病理として”レッテル張り”を行っている評者には耳が痛い話である。しかし、今ならまだ引き返せるかもしれない。自分なりの「節度の精神医学」を心がけつつ、治療者が診断室やカウンセリングルームを出て社会的な発現をする是非についても、もう一度、考えてみたい。

日本経済新聞 2006年1月8日 書評「臨床心理学」という近代より(評者 精神科医 香山リカ

この書評を読んで、何となく昨年の9月の記事にも書いたが、小泉自民党の大勝に関するマスコミや blog の世論に対する言葉にならない違和感の理由が少し見えてきた気がする。(特に太字にした部分について。)要は、昨年9月の小泉自民党の大勝を表して、「小泉流ポピュリズム」や「若年層を中心にした都市部市民への宣伝戦略の勝利*1」、「小泉劇場」、「選挙で勝てるリーダーシップの勝利」とか、沢山のレトリックで語られてきたと思う。ただそうした見方に何か決定的なものが欠けていると感じていたのだ。それは自分が自分なり考えて、自民党に投票したからだろうと思う。誰も私の考えを代弁してくれていなかったのだ。
しかしそれは最近の世情を考えると仕方の無い話かもしれない。ベストセラーになった「下流社会」という本がある。読んだ事はないが話題になっているので、その中のフレーズを目にすることも多い。その中でも特に「下流に位置する人、特に若者には自民党支持者が多い」と書いてあるそうだ。その他にも格差社会について論じた『這い上がれない未来』という本でも、負け組チェックシートの第一の確認事項に「①2005年9月に行われた総選挙で小泉自民党に投票した」というのを上げているそうだ。 少なくともそうした時流だと言うのが、マスコミや論壇の主張なのだろう。根底にある考えは書評にも「市場競争原理主義に基づく個体還元論」であろう。だけど非常に変だと思うのだ。

頭の良い比較的若い知識人にありがちな、自己の理論に固執して頭でっかちになったあまり、結果的に原因と結果が入れ替わるような結論に陥っているような気がするのだ。*2 むかし学生の頃に読んだ文章読本*3にこんな趣旨のことが書いてあった。今でも教訓として胸に残っている。

「事実をみて、それを素直に表現するのは頭が良くなく、難解に理論を駆使して、奇を衒ったように語るのが頭が良いと言われるが、実際は全く逆である。事実を見て、本質を把握できるからこそ、素直に簡潔に表現できるのであって、難解に理論を駆使するというのは、事実、あまり状況を把握できていないから、それを補完するためである。」

最近、「水からの伝言」に関する記事で、視覚的な情報や単純明快な記号に惑わされて、原因と結果を混同して、「水は意志をもち、全てを知っている偉大な存在だ。」とおかしな事を言う人がいると書いたけど、少し考えれば「水から伝言」ほど露骨ではないにしても、与えられた事実に関して、受けを狙って、おかしな解釈をする人は多くなった気がするのだ。例えば「下流社会」では以下のような事が書いてあるらしい。

「少数のエリートが国富を稼ぎ出し、多くの大衆は、その国富を消費し、そこそこ楽しく『歌ったり踊ったり』して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉―竹中の経済政策だ。つまり、格差拡大が前提とされているのだ」、「頑張っても頑張らなくても同じ『結果悪平等』社会より、頑張らない人が報われることがない格差社会の方を、国民も選択し始めているようにも見える」

なんでそこまで自虐的なの?って素直に考えれば思ってしまうのだ。そこまで選挙民は馬鹿なのか。と言うか著者自身がこうした「下流の階層」を上から見てちょっとした優越感とナルシズムに浸っているような感じになるのだが、勘ぐりすぎだろうか。要は小泉自民党に投票した若年層は、今までの政治家が右も左も説教と既得権限の保護ばかりで自分達の世代の意見を全然吸い上げてくれそうに無いと感じていたからだろう。小泉氏は「ポピュリズム」と揶揄されるが、それは逆にどの政治家よりも世論を重視して政治を行うと言う事だけなのである。彼が派閥を嫌い、全身全霊でぶっ壊した事からも分かるとおり、自身の政治基盤を世論においている割合が他のどの政治家よりも高いだけなのである。*4 見せ掛けのパフォーマンスなんぞ誰も騙せないのである。
下流社会」で下流といわれた層は社会に対してある種の危機感を持っているとおもうのだ。*5 ただどの政治家も政党も、それをスルーしてきたのだ。言葉には出来ないが、市場競争原理主義の行き過ぎと、臨床心理における個体還元論の跋扈に象徴される自己責任論の横行は、政治や行政がごく少数の人間が利を独占するような既得権限を守るために、必要な変化を拒んできたことのある種言い訳に使われてきた嫌いがあると思う。そしてそれを「下流社会」等の論壇が原因と結果を逆転させるような論を展開して補強してきたと思うのだ。こんなの明らかに政治や行政の不作為から来る失敗だろう。誰の税金で行政が動いており、誰の投票で政治家が選択されると思っているのだ。中学の公民の時間で習った事だ。当たり前の事が忘れ去られているだけだろう。
その辺の閉塞感を汲み取ってくれると期待をもって私は小泉氏に投票したのだ。彼は世論の動向には極めて敏感だと思うし、聞く耳をちゃんと持っている。*6 ではどのような危機感なのか。

冒頭に上げた書評を見て、表題の書籍を買おうと思っている。それは私自身がまったくのボランティア的であるが占星術師として、若者の相談に乗ることがあるが、最近、境界例かもしくは明らかに精神に異常をきたし始めた相談者が多くなっていると感じるからだ。また、私の母親自身も昨年にそうなってしまった。*7 そうした現実に対応する必要性から、臨床心理の本を勉強する事が多くなったせいかも知れない。この辺は「ニート」の増加が社会現象になっているが、そうした現象の底辺を見ているのかもしれない。実際に「ニート」と呼ばれる若者と接して、その苦しみをひたすら聞いていた事もある。

そうした経験を経て思うに「ニート」に対する対応も 市場競争原理主義の行き過ぎによる自己責任論の横行を象徴していると思うのだ。よく読んでいる kibashiri さんの日記には先日の東証のシステムダウンについて2件ほど記事が投稿されていたが、これは一過性の問題ではなく、日本の社会のIT投資や産業の技術競争力低下などの構造的な問題が含まれていると書かれていた。その通りだと思う。私自身、ソフトウェアを専門とする技術者であるが、その辺の問題の根底には労働衛生の問題があると思うのだ。その趣旨は以下のように kibashiriさんへのコメントに書いたとおりである。

『この問題は根が深いですね。個人的には、この問題は労働衛生の問題だと思っています。日本のハードウェア系の製造業が世界を席巻した理由の一つは、法的に労働衛生を推進する環境が整って、ある意味安全に働ける職場が用意されたことだと思います。私は SE ですが、職場が工場なので、職場の安全委員を経験したことがありますが、実に多種多様な安全法規、環境法規が存在し、事故の発生に合わせて最適化の努力が行われています。そうした安全コストをはしょれば、社会的な制裁がまっているという制約条件下で利益を確保するためには技術を磨いて、正攻法で低コスト、高機能、高品質を目指す以外ないと思います。
ところが日本、IT の分野に関しては全然駄目なんですね。これが。kibashiri さんがご指摘のとおり、デスマーチが軍功として不幸自慢の種になるような業界ですから。最近 mixi のとあるSEが集うコミュで、過酷な労働環境で精神を病んで、「仕事やめてニートになりたい」と悲痛な書き込みがありました。こんな業界に社会的なインフレを支える高度な技術基盤が育つはずもないという気がします。
あと、最近「ニート」対策と称して、「働く気の無い若者は云々」という論議が盛んですが、聞いていて腹が立ちますね。特に若者に人気のあるIT業界の実態が過酷労働が常態化しているという事実が、ニートな若者を増やしているという実態をまるで無視しているからです。その辺を政策的な売りにしている政治家が何人かいますが、「軍曹の話」でも読めと言いたいですね。
(軍曹の話↓)
http://s03.2log.net/home/programmer/archives/blog38.html
http://s03.2log.net/home/programmer/archives/blog39.html
http://s03.2log.net/home/programmer/archives/blog37.html

最近、玄田有史氏がその著書「働く過剰 大人のための若者読本 日本の〈現代〉12」でその辺の事情をもっと一般的に論じている。労働に伴う疾患は、労働衛生の問題だと思うが、IT 産業における精神疾患の多発は、労働衛生の問題として、大きく取り上げてこられなかった。多くの場合は自己責任でなんとか自衛するしか無いような論調で語られてきたと思う。ある場合は個人が精神科医をもっと利用する事で、ある場合は会社側がもっと理解を示す事で、などである。*8 しかしこれはどう考えても労働衛生や労働環境の問題だ。玄田有史氏の主張を借りれば以下のように説明できる。

年々増えているというニート。「単に甘えているだけ」「親がぜいたくさせているから働かない」など、大人から絶えず批判の対象にされてきた。本書はそんな大人たちに真っ向から反論する。
著者の主張は「若者自身が悪いのでなく、ニートが生まれざる得ない社会構造に問題がある。」というもの。現代社会を生きる若者が直面する問題を豊富なデータから丹念にあぶり出す。
不況で人材育成を放棄した企業の過剰なまでの即戦力指向。少ない採用枠からあふれてしまった若者が過剰に失う自分に対する自信。正社員に採用された後に待ち受ける、心身に変調を来たすほどの過剰な長時間労働。これらの「過剰」こそがニートを生み出す原因だという。
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日本経済新聞 2006年1月15日 書評「働く過剰」より

まさに「我が意を得たり」の主張である。しかしこうした矛盾や問題を解決するには、必ず政治的な主張や施策が必要になる。要は道路や公民館ではなく、若者の能力にもっと政策的に投資すべきなのである。例えば、それは地味ではあるが、日本の IT 産業の技術競争力の底上げには絶対に必要なのである。そう国民が主張すべきなのである。それは国民にとって当然の権利であり、義務であると思う。それが民主主義だと思うのだ。

都市部の若年層は『下層社会』のような行き過ぎた自己責任論に矛盾と自身の将来への不安を感じるからこそ、世論を政治的な基盤にする小泉氏に投票したのだと思う。*9 そこの原因と結果とを巧妙に逆転させ、人々のセレブ指向、優越感をくすぐるように「負け組だから小泉自民党に投票した」と表現するのは、個人的には「水から伝言」の話と同じような倒錯した思考回路を感じてしまう。「水からの伝言」については、その「トンデモ」な内容にも関わらず、一部公立小学校の道徳の授業で取り上げられた事が科学者を中心に相当な危機感を持った方々がアンチキャンペーンを展開したが、「下流社会」のような行き過ぎた自己責任論や個体還元論についても、もっと社会的に反省すべきだと思うのだ。

「臨床心理学」という近代―その両義性とアポリア

「臨床心理学」という近代―その両義性とアポリア

働く過剰 大人のための若者読本 日本の〈現代〉12

働く過剰 大人のための若者読本 日本の〈現代〉12

*1:確かに、この辺をみると昨年の選挙では自民党の選挙広報はかなり戦略的に進められたようだが。それは単に自己表現が優れているということであり、嘘が上手だという意味ではないと思う。

*2:この辺の起源の一つに私は多分、受験制度における偏差値の乱用が影響していると思う。なにせ18、19歳の多感な時期に特に優秀な学生の多くが、数字の一人歩きに振り回され、しかも騙されていた事になんら自省の機会が与えられないのである。この辺については論を新たに後ほど書いてみたい。

*3:書名はわすれてしまった。

*4:まー織田信長における、楽市楽座の思想と同じかもしれないが。それでも社会が閉塞感にあるときはそういう政治家も必要だと思う。

*5:少なくとも私は「下流」に分類されるのだろう。そして危機感を持っている。

*6:後はそれを彼の嗜好にあわせる必要はあると思うが。

*7:お蔭さまで今はほぼ完全に回復しました。これも追って経緯をまとめて投稿したいと考えています。

*8:例えば、@IT では、IT 関係とは全く関係の無い記事であるが、メンタルヘルスの記事を載せている。しかしIT産業に於ける労使交渉を通じた職場環境の改善のハウツーについては何も乗せていない。

*9:ただし、小泉氏が長期的に見て世論に答える施策を行ったかどうかは、これから監視せねばならない。