文脈と制約条件。

母親が心を病んでから、色々考える事が多くなったと思う。一体何なのだろうか。通常の病気ではないと思う。先日、心療内科のクリニックに相談に行ったが、やはりこういう問題は難しいので本人にカウンセリングをしないと分からない事が多いとの話である。薬で一時的に症状を押さえる事は可能であるが、副作用もあるし薬の服用を継続しても完全に直るとはいえない。逆に何がしかのきっかけで直る事もあるという話であった。普通の病気のように身体を対象にして原因を見つけて、治療を施すとプロセスはまるで通じないと思うのが、実感である。

この場合、治るという事はどういう事なのだろうか。元の生活に戻るという事なのであろうか。正直に思うに、元々母親との親子関係はそんなに良くなかったと思う。母は非常に思い込みの激しい所があり、即断即決な人であった。だからあまり人の話に耳を傾けないところも有り、日常の会話もどちらかと言うと一方的に母の話を私が聞くというケースが多かったと思う。元々、思索が好きであまり人付き合いに積極的になれないの自分もそういうところに影響があったのかもしれない。昔はやったアダルトチルドレンではないが、人間性の形成に於いて、家族の影響とは非常に大きな役割を果たすと思う。どこか他人からの干渉も他人への干渉も避けがちなのも、母親の過干渉も無意識の内に母親の過干渉を避け続けてきた事が大きな要因のような気もする。
前の記事無為無策について書いたが、今の私の置かれた状況では決して何もしないという事ではない。ただ平常を失わないという意味である。こうした無為無策を思いついたのも、昔読んだ、河合隼雄の本(「宗教と科学の接点」)の内容が記憶に残っていたからだと思う。先日、再度手にして読んでみた。タイトルは「宗教と科学の接点」であるが、内容は村上陽一郎のような科学哲学の話でもなく、宗教学の話でもなく、臨床心理の治療者の経験からとして、治療に臨むに当たって従来の西洋医学の科学的方法論に基づく取り組みの限界とユング派の臨床心理の行為における宗教的なものの必要性について書かれたものである。

ユングと言えば科学的方法論、因果律だけでは意識を把握する事は不可能だとして、東洋思想から元型や集合的無意識共時性シンクロニシティ)の概念を打ち立てた心理学者である。それらの概念は決して科学として追求した物ではなく、科学では客観的に捉えきれない意識の問題に、実際に分裂症患者の治癒を通じながら、思索を重ね生まれた物である。この本の著者の河合隼雄にしてもやはりこの本を書くに当たって、臨床心理の実践者として立場を強く前に出している。共時性について説明するため、自分の進路について「易」を行った体験談を書いていたりもする。ちょうどこの本を買った頃は、占星術で人の相談に載るようになった時期でもあり、この本からはカウンセリングに臨む心構えみたいなものを教わった気がする。前の記事にあった中国の古代の王が無為無策であったというのも、元ネタは中国の古代の王の態度を自らの治療の手本とするペリーという心理療法家の大家の話からである。参考までに以下にその部分を引用してみる。

たとえば、ジョン・ウィアー・ペリーは分裂病心理療法家として極めて名高い人であるが、彼は分裂症のことなど一切話さずに、中国古代における王に関する観念について話をした。中国の古代において理想とされる「無為にして化す」といわれる王の姿について彼が語るのを聞きながら、彼は実のところ分裂病心理療法の根本問題について語っているのだ、ということに私は気づいた。彼はまた、王が権力をもち出すと堕落して、自分の力によってすべてを支配するようになることも語ったが、彼が比較して語っている王の有り様は、すなわち、心理療法家の有り様にもつながるものなのである。・・略・・
彼の話のもっとも大切な事は、先ほどの中国の王の話と同じことである。どれほど妄想や幻想に悩まされ、あるいは、荒れ狂っている患者さんに対しても、それをこちらが静めようとか治そうとかするのではなく、「こちらが自分の中心をはずすことなく、ずっと傍にいる」とだんだんと収まってくる、というのである。
(P13 より)

格言に「読書三篇・・・」というが、ただ今回読んでみて最初に買った頃とは違った事が分かったような気がする。やはり実際に母親がちょうど心理療法の対象者となった事が一番大きいからであろうか。有る意味、一字一句が切実に胸に響く所がある。原因は単純ではない。また病気だから治そうという態度で相手に接する事は、相手を見下して支配しようとする事につながるような気もする。結局元の親子関係から私が生まれる前の経験まで、様々な要因が絡んであるのであろう。その中には私自身の態度も含まれているはずである。決して、この心の病は原因を客観的に見出して、対処できる物ではない。目の前に起きているのは母親の人生の歪みのようなものが、限界に来て音を立てて壊れ始めた事であり、その母親の人生にとって私は非常に重要な影響を与えているはずである。それは私自身についてもそうであろう。本質は変らないかもしれない。単純に私は正気を保つ事が出来、母親は運悪く、狂ってしまっただけとも考えられる。これは私自身の主体についての問題でもあるのだ。客観的な立場でいられるはずも無いのだ。

今回、そういう意味で、この本を読んでみて非常に印象深かったのは、以下のところである。

すぐに原因と結果とを結びつけるのではなく、いろんな事柄の全体像を把握することを、コンストレーションを読む、と言っている。根とレーションは星座を意味する言葉だが、一応「布置」などと訳している。原因、結果という考えにとらわれず、ともかくそこに一つのコンストレーションの出来上がっていることを認めるのである。コンストレーションを読むためには、われわれは「開かれた」態度を持たねばならない。性急に悪や不正を排除しようとする態度をもつ人は、コンストレーションを把握できない。一般の人がすぐに拒否したがるような、症状や非行や事故なども、全体の中に取り入れてこそ、意味の有る構図が見えてくるのである。このように極めて「開かれた」態度で現象に接していると、第二章で論じたような共時的現象が思いの他に生じており、それが極めて治療的に作用することを見出すのである。(P183-184 より)

最近、母親の心配をする事も増えたと同時に、ご飯を作ったり、掃除をしたり、夜中背中をさすって慰めたり、日常的に母親とやり取りする事が非常に増えたと思う。病のせいで自分が何も出来ないせいか、母親も比較的素直になったような気がするし、私も以前では考えられないような穏やかな言葉使いで母親に接する事ができるようになったと思う。不思議な物だ。結局、今まで家庭生活のいびつな部分がこうして形を表したのであるなら、今は家族関係をもう一度作り直すと前向きに捕らえ直したらどうであろうか、と自分に問うている。その方が希望ももてるような気もする。全体の文脈(コンテキスト)を見ながら、理想とする家族関係と、そこにかけている物(自分にとって、思いやりとか、態度とか)を補って行くという事になるのか。ただ一度壊れた物を作り直すような所もあるので、慎重さを必要とされると思う。要は家族として心を開いて接するという事が今は一番大切だと思う。

今日、食事中、母親はぼそりと「一人だと怖くて何も出来なく死んだようになるけど、二人でも誰かがいると何となく生気が出る。家族って大切なんやな・・・・」とつぶやいた。そうだと思う。母親にとっても私にとっても、今はそうした事を考える機会なのだと思う。

ところで本文中では「コンストレーション」という言葉が使われているが、工学的に「制約条件」と言う意味で使う事も多いので、今ひとつ「縛り付ける」という印象があって好きになれない。個人的にはここは文脈(コンテキスト)の方が良いような気がする。実際に占星術で占段する時も、占段対象に関する文脈・コンテキストを読む事は非常に大切である。また本文中、「共時的現象が思いのほか生じており、」と共時性に関する記述があったが、共時性についてはまた色々と思うところもある。ただ長くなるので、機会をみて別途それに関する記事を書きたいと思う。

宗教と科学の接点

追記、木走さんの記事にトラバを送信する。(H17.10.02)