支え。

白川にかかる橋の上から、柿の木の枝が川にせり出しているのを一本の棒で支えている風景が見えた。川には鴨が2匹。つがいだろうか。そのままでは確かに折れてしまうので、誰かが気を利かせて、つっかえたものだと思う。

普段なら味のある風景だと、そのまま過ぎていくのであるが、今の状況では何がしか考えてしまう物がある。

  1. いびつに枝を伸ばしてしまった柿の木。
  2. たわわに実る柿の実。
  3. 重みを支えるやや斜めに立つ一本の棒。

そんな風景を見ながら、例え年老いて、一人で生きていけなくても、たった一人でも良いから支えがあるなら、再び実をなすことも可能なのかと、そんな寓意を読んでみたりする。偶然の中から、自分に特別な意味付けを行う事。下駄の鼻緒が切れた。黒猫が前を横切った。四葉のクローバーを見つけた。人は何故そんな事を行うのであろうか。
しかし自分で意味を見つける以上に、意味のある事とめぐり合ってしまう事もある。前にこの BLOG のコメントで村上春樹の本を薦められた。この手の作家は全くといって良いほど縁がなかったが、興味を覚えたので一度読んでみようと思った。先日、出張で九州に行く際に新幹線の中で読む本として、適当に村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を選んで読んでみた。要は二つの物語を同時進行で交互に並べて書いてあり、それぞれの物語が関連して収束していく形に話が出来上がっている。前に BLOG で今の生活は二つの世界の中で同時に生活しているようだという事を書いたが、何がしか非常に今の自分に親近感のある世界であった。世界の終わりの冬の状況は今の季節のせいもあり、自分の今の現状と心象風景をそのまま喩えていると思った。現実の世界と別の世界とが、ちょうど共振するように進展していくその有様は、日常の生活とバランスをとりながら、過去の記憶と思念の世界に閉じ込められた母親との生活に出入している今の私に非常に意味的に近い物を感じるのである。村上春樹の他の作品がどのような物か、デビュー作以外は良く知らないし、彼がどのような人物かもほとんど知らない。しかし彼がこの小説を書いた時の想いと今の私の心境に何がしか共鳴する物があるから、私はこの本を手にしたのであろうか。そう思ってしまう。偶然であってもめぐり合わせだったんだと。

公平さというのは極めて限定された世界でしか通用しない概念の一つだ。しかしその概念はすべての位相に及ぶ。かたつむりから金物屋のカウンターから結婚生活にまで、それは及びのだ。誰もそんなものを求めていないにせよ、わたしにはそれ以外与えることのできるものは何もないのだ。そういう意味で公平性は愛情に似ている。与えようとするものが求められているものと合致しないのだ。だからこそいろんなものを私の前を、あるいは私の中を通り過ぎていってしまったのだ。*1

意味のある偶然という事象から、「共時性」という概念を導き出したのはユングだったと思う。彼が分裂病患者の臨床を行っていく過程で、単純な原因と結果では説明できない出来事を経験することが多かったという体験から、そんな事を思いついたようだ。患者さんが夢で見た神聖甲虫の話をしている時に、窓に良く似た形の黄金虫がぶつかってきた。そんな経験が彼の共時性の概念の元に成ったようだ。しかし何がしか腑に落ちない所がある。やはり彼がこの「共時性」について、発表をためらったのも分かる気がする。概念的には非常に示唆に富んだものであり、現実を良く見ていると思う。ただ概念としてどこか無理があるような気がする。要は難いのである。実際にこの「共時性」について物理学者のパウリと共同で書いた著書は非常に難解である。単純な因果律とは違うものを物を、その因果律の世界の言葉で何とか言い表しているような気がするのである。

幸いにも日本語には、こうした概念をより自然に表現している言葉があると思う。私なら「縁起」という言葉を使うと思う。縁によって起こる。仏教の用語であるが、この方がしっくり来る。今では「縁起がいい、わるい」とか限定された意味で使う事が多いが、本来は何らかの関連性、類似性に基づいて、物事が推移していく様相を示す言葉である。ただ仏教の現実・存在の捉え方は五蘊、つまり「色、受、想、行、識」と物質(色)と同列に意識や行為、心を扱っている。多分に色のみで考えるなら物理法則で説明がつくが、他の4つも含めて考えると、それぞれの世界の相互作用のあり方が有り、それは比喩、隠喩で持って表現される近さや、意識の方向付けによって生じる「結びつき」等が複雑に絡んでいるのであろう。それらをまとめて「縁」のあるなし、近い、遠い、似ている、違うで考えた方がより自然な気がするのだが。・・・共時性の場合だと元の語感から、何がしか共鳴的な部分が強調されてしまっている気もする。

そう「結びつき」、結局意味のある、なしも含めてどのように結びついているかなんだろうと思う。考えてみれば母親は誰にとっても最初の他人なのである。孤独な傾向にある自分にとって、他人とどう関わっていくかという事は実に神経を使う事でもあった。もとより今の生活で母親の問題は、最初の他者と言う意味では、自分がこの世界に、社会にどう関わっていくか、なんかその原点に立ち返っていくような感覚に陥るのである。つまり自分はこれから何をしたいのだろうか。自分の意志が常に問われている気がするのである。

「柿の実の、重み受け立つ、棒一本。」*2

*1:村上春樹著、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、下巻 P334 より。

*2:冒頭の写真にある風景をみて思い立って読める句。