助かるきっかけ

時々、個人的なことについて占星術を使って占段を立てる。先日も母親から頼まれて立てた。「これから私はどうなるん?」と。しかしこう追い詰められた状況では、中々正確な判断が下せない。何が原因でこうなったのか。そこからどうすれば良いのか。全体の流れが掴みにくい。断片的なことしか見えて来ず、もどかしい物である。

しかし、最近、何か違うような気がしてきた。自分自身、少しぐらいついているのだと思う。過渡期と言うのは往々にしてそういう事が起こるものなのだろう。

ところで、こんな話がある。中国の昔話である。

ある川沿いの村に、旅人がやってきました。
旅人は一夜の宿を求めて、彷徨っていると老婆が親切にも泊まってくださいと申し出てくれたので、旅人は好意に甘えて老婆の家に泊まる事にした。老婆は一人暮らしで寂しいのか、色々と親切を尽してくれました。旅人はいたく感激し、学問があり易占も心得ていたので、あくる朝、旅立つ前に老婆のために、一占、立てて上げました。

「私はあいにく、礼をするほどの路金を持っていない。しかしながら易占で見たので忠告します。村に入る門の柱が赤くなったら、あの丘の上に急いで逃げなさい。必ずですよ。」

旅人は、親切な老婆にそう忠告して、去って行きました。老婆はその旅人の忠告を素直に聞いて、それからと言うものの、毎日、頻繁に門の赤い柱を確認するようになりました。

ある日、村の若い男が老婆になぜ門の柱を気にするのかと訪ねると、老婆はその旅人から受けた忠告の事を話、彼にも気をつけるように言いました。それを聞いて内心笑っていた若い男は、ある日数人と語らって、いたずらで村の門の柱を赤く塗りつぶしました。それから、門が赤く染まっているのをみた老婆は大いに驚いて、大急ぎで家財道具をまとめて、丘の上に逃げていきました。それを見た若い男たちは大笑いです。

その晩に突然の豪雨によって、川が決壊し大水が村を襲いました。ほぼ全滅です。助かったのは丘の上に逃げたあの老婆だけでした。

芥川竜之介が確か、この物語を元に何か短編小説を書いていたと思う。題名は何であったか忘れた。しかし最初に読んだ時、シュールでナンセンスな話だと、妙に印象に残っていたのである。知人にこの話をすると「何の意味があるんや」と言われた。確かに意味不明のような気もする。

ただ今考えるなら、この旅人は易占の腕前は達人の域だと思う。当たり前の事であるが、村を襲った大水と門が赤くなった事に因果関係も関連性も一切無い。村の門を赤くしたのは、村の若い者のいたずらであり、大水は豪雨のせいであり、豪雨は気象条件による。そうした事が分かっているから、あたかもいたずらで門が赤く塗られたら、豪雨によって村が全滅して、占断が当たったような流れのこの話がナンセンスに見えるのだろう。つまり時間的経過から、因果律的な物の見方をついしてしまうのである。

前の記事にも書いたが、本当に占断で重視するのは、因果律的な経過ではなく、偶然の中から意味を読み取り(ユングの言葉でいうと「共時性」)、全体の文脈や配置を見ていくことである。が、この物語ではそれすら殆どない。文字通りナンセンス(無意味)なのである。結局は危機を予知して、そのタイミングだけを読み取って老母を助けている。この物語の事の真偽は別にしても、これは神業に近い事だと思うし、いつしか自分もこうした技を身に付ける事が出来ればと思う。

母親が病に陥ってから色々観ずるに、やはり意味付けや、因果律的な物の考え方が非常に強くなったと思う。強迫観念に取り付かれているせいだと思うが、自虐的に、物事に対して意味を考え、理由付けを行い、因果関係を読み取っていく。細かいぐらいである。今の自分の苦しみから逃れたい気持ち一心で、色々考えているのは分かる。それ故に狂気の世界に迷い込んでしまった嫌いもある。原因と結果が分かれば、そこから対策を考えて解決への道が開ける。普通に物事を対象としている場合ならそうかもしれないが、人の心の場合はどうもそう一筋縄では行かない場合が大半じゃないかと思う。因果律的な思考法がかえって本人の仇に成っているのである。

それは間違った思考による物だからで、正しい因果律ならばと言うかも知れないが、人間の限られた認識能力と時間の中で、何が正しいと判断するのだろう。そしてその間違った思考をどのように正しくすれば良いのか。正しさだけを示しても、世界が違えばそれは存在しない事と一緒な場合だってあるのだ。

以前相談しに行った心療内科の先生が「しかしこうした病気は薬とかそんなんじゃ無く、なにがしか別のきっかけで大きく改善していく事もありますしね。・・・」と自信なさげに言っていたのが印象的だった。そう「きっかけ」である。私が「この旅人は易占の腕前は達人の域だと思う。」と書いたのは、余計な事は抜きにして確実に有効な「きっかけ」だけを探し当てているからである。要は助かればよいのである。占星術は別に客観的な事実を見出すために使われるのではない*1。要は何がしか人の行く先を導くための明りのような道具だと思う。

数字と象徴的な記号の羅列から、私は何を見出したら良いのであろうか。多分に占っている私自身が当事者であり、森の中にいるからであろう。木々は見えるが森の全体像は中々見えてこない。そう言えば、最近、読んだ小説に*2にこんな文章があった。

「私は考えることができます。待つことができます。断食することができます。」
・・・・略・・・・
「しかし、シッダールタは静かに待つ事が出来ます。彼は焦燥を知りません。困る事を知りません。長いあいだ飢えに包囲されても、それに対して笑っている事ができます。断食とはそういう役に立ちます。」
(ヘッセ、高橋健二 訳「シッダールタ」新潮文庫より)

めぐり合わせであろうか。焦るなということであろうか。全体像が見えない事は、実は本質ではないような気もする。森は見えなくても、木々は見えるのである。要は「きっかけ」であり、チャンスを待つと言う事であろう。嵐の中でも笑いながら。

拍子木が、夜に導く、「火の用心」
暮れのせわしさ、闇の静けさ。

そんな時折である。今年もあと一日か。

*1:もちろんそういう要素もあるが

*2:シッダールタ (新潮文庫)