子ども
よく読んでいる BLOG http://www.idealbreak.jp/nikkei/ を見て思ったことをつれづれなるままに。
子どもと接したり、子どもの事について語るのは時として難しいと思う。どこまでを子どもというのか。よく分からない。休日に占い師となって、運命鑑定を行うことがあるが、大抵は無料でやるので、子どもが見て欲しいと来る事も多い。
- 何がしか子どもだという先入観で見てしまう。子どもと言う枠を決めてしまう。
- 相手が子どもだから、自分を上の立場においてしまう。
- 自分が人生に於いてより多くの経験を積んでいるせいか、子どもより自分の方が知識が多いと決め付けてしまう。
そんな事からだろうか。子どもの鑑定には、ある種自分の観察力を失ってしまうような危険が潜んでいる。この辺の難しさを感じるのは私だけではなく一般的なことのようだ。
聞く態度の基本は、聞き手と話し手が対等の人間関係をもっていることです。報道関係者のようなプロでも子どもをインタビューするのはなかなかむつかしいそうです。それはたいがいの大人が子どもと話をするときにこの基本を守っていないからです。
『プロカウンセラーの聞く技術』 東山 紘久 創玄社 2000年 P148 より引用。
http://www.idealbreak.jp/nikkei/2005/02/post_3.html では、14歳でアメリカの大学の医学部で研究生活を送る日本人の天才少年を取材した記事に対する感想が書かれていたが、その元記事の中では以下のようなことが書かれてあった。
規格外の存在に人はせん望と恐れが混じった視線を向ける。米国でも極端な飛び級は人格形成にマイナスとの意見が主流だ。・・・・<略>・・ 9歳で大学生になったときは図書館で本を貸してくれないという嫌がらせにも遭った。『醜い人たちをたくさんみてきた』ともらす。
[そこまでやるか] 新エリート主義(5)天才少年、学も芸もアリ」(2005/02/01, 日本経済新聞 夕刊より
以前にも書いたが、16歳で妊娠。結婚と出産を決意しようが、絵がすきなんだけど、生まれつき難しい神経症的な病気を抱えて親の負担になってしまっていようが、その子の人生はその子の人生である。誰だって自分の人生は自分の意志で歩みたいだろうに。
『子どもだろうがそこに一個人としての人格を認める事』
経験的にカウンセリングをしていて覚えた事だと思う。そうして子どもと相対する時は、まるで鏡で自分の姿を映し出されるような感覚になることがある。やはりそれだけ素直だからで有ろうか。*1
しかし、この元記事の天才少年に対して、やはり羨望を抱いてしまうのも事実である。
生後6ヶ月から母は毎日十冊の本を読み聞かせた。・・・<略>・・・・八歳まで通った英才学校も飛び級を認めず、母が自宅で教えるホームスクールに切り替えた。・・・・<略>・・・・「母さん、小百合が勝手にポテトチップスを食べているよ」。少年らしさがにじんだのは妹のズルを告げ口したときだった。
日経新聞、同上の記事より引用。
たとえ人と大いに異なる自分でも、それを個性として受け止めて理解し、支えてくれる人が身近に居る。彼の幸せはそんなところに有るように思う。だからこそ周囲の「醜い大人」の無理解にもめげずに行けるのだろう。
多分、自分の身の上と照らし合わせてしまうからだろうか。理解しがたい事態に陥り、母親の人生と時間をかけて向き合わないといけない現在、この境遇の差はどこから来るのか。ふと考え込んでしまう事が多い。
『家族の理解か。・・・・・・・子どもだった時代はもうとっくに終わっているからな。』
*1:しかしそうでない防御的な姿勢を崩さない子どもも時としている。大人のように振舞おうとする場合もある。それはそれで難しいケースなのだが。