職業倫理。

『春秋左氏伝』に曰く、昔、中国の春秋時代、紀元前550年ごろ、斉国において、君主の荘公が重臣の萑杼に殺された。元々好色な暗君であった荘公は萑杼の妻が美人であったのを狙って、不倫を働きかけたのがきっかけらしい。重臣萑杼の権力が強かった事もあり、あっさりと主君殺しは成功したらしい。しかし当時の斉の大史(記録官)は、何も迷うことなく、「萑杼、その君を弑す。」と書いたらしい。萑杼は怒って、その大史を処刑したのだが、その弟もまた大史であり、同じ事をそのまま書いたらしい。萑杼は弟の大史も処刑したのだが、その末弟もまた史官であり、同じ事をやはり書いたところ、萑杼も諦めてしまったと言う事である。

ところが、地方にいた史官の南史氏が、その大史が2名、処刑されたことを聞き、記録用の竹簡を携えて、斉の都に史官の仕事の支援で赴いたそうだ。当然処刑された人間の後釜を自主的にである。殺されるのを覚悟の上であろう。しかし、末弟の大史が何とか記録を残せた事をしり、安心して引き返したらしい。紀元前550年、基本的人権などと言う思想体系は全く無きに等しい時代である。それでも記録を正確に残す事に命を張った人達がいたと言う事である。*1

最近、マスコミやジャーナリズムについて、色々と批判も多いようである。基本的人権、知る権利など、法の保護を盾に行き過ぎた取材で非難される事もあると思う。逆に身を危険にさらしてまで、伝えなければならないと言った情熱に出会う事も少なくなったし、そうした情熱を受けとめるだけの感性を私達は失いつつあるような気がする。一昨年か、イラクで人質に会った日本人の一人は確かジャーナリストだったと思う。あの時は「自己責任」の名のもとに随分、非難を浴びたようだ。しかし身を危険にさらしてでもやろうとした事は決して私利私欲ではなかったし、後から考えるなら、彼らのメッセージを冷静に社会全体で受け止めるべきであったような気もする。

私達は日本の国にいる間は確かに知る権利や情報公開の制度が進み、法律の保護の元、その権利を自由に行使できる。しかし権利と言う言葉の「権」とは本来は「仮の」とか「一時的に与えられた物」という意味である。だから本来の意味で考えるなら、知る権利なんて言っても結局、私達は物事を能動的に知るためには、自助努力で探さないといけないし、探し当てられるかどうかは、誰も保証してくれない。 そうなるだろう。制度はそれ自身では自律的ではない。精力的に支える人がいて始めて、存続する物だと思う。ネットを使って簡単に得られる情報の中に本当に私達が知らなければならない物はどの程度の割合なんだろうか。
最近、新聞でロシア人のジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ女史の記事が載っていた。長く続くチェチェン紛争の現状を文字通り命を張って*2 伝えてきた人である。1999 年以降、内戦状態になってから、チェチェンでは政府・連邦軍は「イスラム・テロ組織」の掃討の名目の元に圧政を強い、イスラム系反政府勢力も聖戦への義損金名目で流れ込むアラブのオイルマネーの利権に漬かりきり、治安の悪化によって、白昼堂々と強盗、マフィアが跋扈するようになりかなりの一般市民が犠牲となった。彼女はジャーナリストとして行動すると同時に、迫害されている地元の住民たちに対して、弾圧活動の告発や失踪した家族・友人の探索、迫害されている住民達の救援活動なども、文字通り孤軍奮闘している。最初は普通に新聞社のジャーナリストとして、行動していたらしい。しかし結局、自分の良心に従っていくうち、チェチェンの住民から「あなたがわたしの最後の希望です。」と言わしめる程の存在に為ったらしい。そんな彼女が新聞のインタビューにこんな風に答えていた。

「戦争で両親を亡くした5歳の孫を養女にしてくれる人を探してもらえないか。」家屋を破壊され途方に暮れてこんな手紙を寄せてきたロシア人老婦には現地に会いに行き、記事を書いて援助を呼びかけた。「皆を救えるわけではない。自分の仕事を逸脱していることも分かっている。だれど黙って見ていることはできない。」・・・・<略>・・・・
脅迫や圧力を受け、身の危険も感じる。学校占拠事件で状況打開に向けた交渉を仲介しようと現場に向かう途中、機内で出されたお茶を飲んで意識を失い、気が付くと病院にいた。「毒を盛られたのよ。」看護婦にはこう耳打ちされたという。「疲れ果てているし、もちろん怖い。」それでもチェチェンに向かうのはなぜか。「私には責任がある。人間としての責任が。」チェチェンの悲劇を一人で背負い込むかのように、ポトリコフスカヤさんはつぶやいた。

日本経済新聞、2005年、2/6(日)、34面 世界いまを刻む。「混迷のチェチェン住民に救いの手:記者の献身 取材を超えて」より引用。

勇気有る行為に、無法地帯と化し抑圧されつつある住民から最後の英雄扱いされたアンナ女史であるが、文字通り命がけの仕事に身も心もボロボロなんだろう。相手は政治の闇であり、歴史の暗部である。*3そこには基本的人権や法の元の平等による保護は全く期待できない。文字通り、生き抜くための本能と人を人として成り立たせている良心*4と、ペンだけを便りに戦っていくしかない。基本的に自分を頼りにするしかないが故だろうか、彼女は自らが政治家ではなく、その行動が「ジャーナリスト」を逸脱している事は自覚していたし、やはり職業人としては悩んでいるだろう。しかし、だからこそ尊いと思う。

昔、中国ではアンナ女史のような人物を「義人」といって尊んだそうだ。もし仮にアンナ女史がロシア政府の弾圧を、反政府組織の暴力を声高に非難するだけならば、彼女は決して、チェチェンの住民から「最後の希望の光」と呼ばれるほどの存在にはならなかったであろう。あくまで現地に取材した事実を伝える努力をして、身を張って呼びかける事に徹っしている。義人たる所以である。正義を叫ぶだけなら誰でもできるし、現にテロリストの多くは共産主義なり、国粋排外主義なり、キリスト教イスラム教なりの正義を叫びながら、暴力に邁進している。知る権利を声高に主張するこの国のマスコミにしても、阪神大震災の時だったが、家屋の倒壊によって取り残された人を、その声を弱まっているが故に耳を澄まして救助活動をしているその上を、ただTV移りの良い画像を取るために、爆音を鳴らしながらヘリを飛ばして邪魔をしていたのを覚えている。まるで無反省だったように思う。守られる、保護されると言う事は他者への配慮を失う事につながるのだろうか。日常から一歩踏み出して、深い真実を知ろうとするなら必ず何らかのリスクは背負わないといけない。勇気のいる行為だと思う。

最近、色々と有って、個人的なことや、仕事の意味も見失いつつ、ただ追われるように生活していたと思う。「何のために」そうした問いを忘れていたような気がする。 仕事として、給料をもらっているからその対価を得るために働く。だけだったと思う。同じ悩むなら、何について悩まないといけないか、そして何を支えにしていくべきか。アンナ女史の記事はそんなヒントを与えてくれた。多分にアンナ女史が命がけの仕事をしているからであろう。それゆえの悩みであるが故に、こころに響いたと思う。本当に素直に感謝したい。

冒頭に掲げた中国、春秋時代の斉の国の話ははるか2500年前の話である。戦争や暴力が人間の業ならば、真実を伝えようとするその意志も、また人間に根源的に備わっているものであると考えたい。ジャーナリストという職業が成立したのは、19世紀か20世紀に入ってであろうが、その元型は多分にずっと昔から普遍的に存在していたと考えられる。アンナ女史がジャーナリストとしてその命を全うするには、私達がそのメッセージを冷静に受けとめる必要があるだろう。そして、心からそのメッセージが多くの人に届くように、そしてアンナ女史の無事を祈ろうと思う。

チェチェン やめられない戦争

チェチェン やめられない戦争

関連情報:
アンナ・ポリトコフスカヤ情報
アンナ・ポリトコフスカヤ − 書評 Wiki
http://blog.livedoor.jp/atelier_am/archives/6797945.html

*1:この部分、平凡社陳舜臣 著「中国の歴史、第二巻:中華の揺籃」を参考に書きました。

*2:昨年のチェチェン北オセチアの小・中学校人質事件では、現地に向かう最中に文字通り毒殺されそうになった。ロシアの情報機関の関与が取り沙汰されているらしい。

*3:この辺に関してはチェチェン総合情報が詳しい。

*4:取材を通じて知り合ったロシア軍の兵士にも、良心的な協力者が何人かいるらしい。