十字架と三日月

気になる新聞記事があった。少し不安になった。

犠牲者・不明者が約三十万人に達した昨年末のインド洋大津波インドネシアで特に被害が深刻だったスマトラ島西北端のアチェ州には、今も毎日のように外国から救援物資が届く。支援物資を村々に搬送する車や配布場所のテントには、鮮やかな赤十字のロゴ。これをん苦々しく見守る人たちがいる。
「配達された新聞に聖書のコピーが折り込まれていた」「救援物資の際にキリスト教の祈りを強要された」−−いずれも未確認"証言"だが、敬けんなイスラム教徒にとってキリスト教の価値観に基づく欧米からの支援は「社会の規律を乱す要因」と移る。・・・・<略>・・・・
多様な信仰がひしめく「宗教のるつぼ」インド。本土で最大の被害を受けたタミルなど州では支援とあからさまな布教が同時進行している。天使の絵が描かれたそろい車を駆り、食糧などを配給するキリスト教修道女が孤児らに賛美歌を教え、そろいのシャツを着たイスラム教徒の若者は沈没漁船を引き揚げ、導師らは孤児の世話をする。人口の大半を占めるヒンズー教徒の胸の内は複雑だ。「キリスト教徒は改宗を狙っている」と、ヒンズー教団体の民族奉仕団RSS。一方、キリスト教信徒協会のビジャヤン支部長は「ヒンズー教徒こそ信仰の自由を侵害している」と切り返し、対立は徐々に先鋭化しつつある。・・・<略>・・・
「助けてくれるなら、宗教などどこでも問わない」というのが多くの被災地の本音だろう。世界から集まる物資は間違いなく多くの命を救っている。未曾有の災害はそれまでの生活・価値観んい大きな揺れをもたらしており、宗教勢力には勢力拡大の一大チャンスだ。異教の流入があちこちで既存の宗教勢力との摩擦を引き起こす。危機の後ろで、新たな混乱の芽がうまれている。

日本経済新聞 朝刊、2005年3月8日(火曜日) 第9面「宗教の新版図。第一部危機の後で」より引用。

歴史は繰り返すと言うのだろうか。
昔、戦国時代、日本にキリスト教が入ってきた背景には、当時のカトリックの宣教師がイスパニアポルトガルの国家支援を受けていたと言う事情がある。戦国時代は一般庶民にとって生きていくのがしんどい時期でもあった。新鮮さとカトリックの宣教師の情熱もあっただろう。九州を中心にかなりの日本人が改宗したが、その末路は哀れだったような気がする。日本では珍しいぐらいに陰惨な島原の乱と言う結末で事実上、キリスト教の活動は止めを刺されてしまった。結局、当時の幕府が警戒したのは、宣教師たちの背後にあるスペイン・ポルトガルの国家的な植民地主義の意図であったと思う。政治的・宗教的な意図を捨てて、商業に徹した新興国のオランダの工作もあっただろうが、その影響を完全に排除するためにかなりの血を流さないといけなくなった。*1 今では当たり前の概念である信教の自由とは、まだ出来上がって 100年も経っていない代物である。
別に江戸幕府の肩を持つつもりはない。もっと犠牲の少なくて済むやり方があったと思う。しかし結論から入るなら、政治と宗教が結びつき、自己の勢力を優先に考える時、いつも犠牲になるのは生きていく術に限られた弱い立場の庶民だと思う。カトリックの宣教師の中には何人も殉教した事も知っている。それでも、宗教が政治的になり、その組織の維持が目的になったとき、本来の目的である慈悲・愛の実践は悲しい事に手段となってしまう。慈悲や愛の実践を最後まで見失わなかった宣教師達が皮肉にも殉教という結末を迎えたような気もする。キリスト教の価値観だろう。キリストも最後は人類の罪を背負って、十字架に掛けられて殉教したのである。本質を見失わないならば、それに習う事が愛の実践であり、信教の完成となるのだと思う。死の向こう側にある物を普段見据えているからこそだろうか。
しかし本質を見失わない人達の数は少ない。姿形では分からない。もっとも宗教的な装いをしている者達が政治的に物事を考える事は、長い目で見るとかなりの犠牲と禍根を残すと思う。それは人の生き方・価値観の根源に関わるものだからだと思う。例えば、災害で弱い立場になった人たちが多くいるからこそ、布教が進むなら、被害者に救援物資を与えつづけて依存心を植え付ければ、布教と言うの名の勢力維持・拡大には都合がいい。貧しさ、不幸な境涯をネタに人の精神を牢獄に閉じ込めるような事がこれから始まろうとしているのだろうか。本当に被災者と助けると言う事は、最終的には環境、インフラを整えて、教育を支援して、自律を推進すると言う事である。別に宗教を否定しているわけではない。というか、私自身の信仰に照らし合わせてみて、相当な違和感を感じているのである。サミュエル・ハンチントンの予言*2がこれから実現しようとしているのだろうか。

以前書いた記事に瞑想に関連して、お釈迦様の言葉に「四等心を念ずるを是を瞋恚を止する薬と為し」と言うのがある事を紹介した。平たく言えば「四等心を心の底から念じ思うことで怒りを静める薬にしなさい」と言う意味である。戦争でもテロでも、紛争でも争いに至る最終的な引き金は怒り・瞋恚だと思う。四等心の一番最後は捨心、捨てる心である。相手への施しを恩を与えた事を全て捨て去る心である。捨てる事によって自分の心も怒りから解放され、相手は自由と自立を得る事ができるのである。今、被災地で布教と言う名の勢力拡大に勤しむ、十字架や三日月の人々にはこのような智慧を持ち合わせているのだろうか。徒党を組まず、文字通り身一つでインドの貧困に飛び込んでいったマザーテレサはもうこの世にいない。彼女がこの災害に面した時、どのような行動を取るのだろうか。一度考えてみる必要があると思う。

文明の衝突

*1:島原の乱では一揆勢、約3万人・女性・子どもも含めて、戦死か刑死でほぼ全滅に近かったらしい。

*2:いわいる「文明の衝突」のことである。