拙度。(とその基準について)

若し凡夫の止善の治する所は、是れ止の相、行善の生ずる所は是れ観の相なり。又四禅、四無量心*1は是れ止の相、六行*2は是れ観の相なり。此等皆未だ生死を免れず、すなわち有漏*3を相と為す。

国訳一切経、諸宗部三、「摩訶止観」 第三重 第一節 第一項 より引用。

瞑想の要諦は「止観(心の集中と拡大)」にあると以前書いたことがある 、その元ネタは上記に引用した「摩訶止観」に由来する。仏教において、四無量心と六度の行は日常の心構えと行動指針を示しているが、「摩訶止観」の理論の部分に於いては、「生死を越えず」故に「拙度」と説明されている。ただ「拙度」と言う言葉をどのように解釈するかは多分に注意が必要に思える。この先に「生死を超越した」止観の相を「巧度」と名づけて説明が続くので、相対的に扱いが軽くなっているのだが。
この BLOG へのアクセスを見ていると時々、瞑想関係の検索結果から参照している場合がある。「瞑想」、「クンダリニー」、「チャクラ」等のキーワードで検索されているのである。*4そうした瞑想の探求者に取ってはやはり、「拙度」よりも「巧度」の止観の相に興味が行くだろうし、探求に掛かるのであろう。*5 ただ思うに、そのような高い境地のみを目指しての瞑想は、砂上の楼閣に過ぎないと思うのだが、どうなのであろうか。結局、四無量心、六度の行の等の部分が「拙度」なのは、「摩訶止観」が中華の小釈迦と言われた 天台高祖智者大師 智邈*6の講義録であり*7、彼にして見れば、当たり前の話であるからだろう。ただ、これを私達自身から見れば、やはり必要な事だし、日常生活に瞑想を生かす上で非常に重要なヒントが隠されているように思える。そうした日常の生活の中に瞑想的な部分が根を張ってこそ、初めて「生死を越えた」瞑想の境涯への入口が見えてくるように思えるのである。
「摩訶止観」という論が残り、その「生死を越えた」止観の瞑想の説明が存在する以上、高い境地を探している人ならば、必ずその読解を試みるであろう。そうした考えで、「摩訶止観」は数多くの顕学や学匠が解釈を試み、その注釈が記述されつづけてきた。特に知識偏重の現代人ならば、その傾向はさらに強まるであろう。ただ結果だけを求めて仕方ないのである。経験や生活感を伴った形で如何に理解するかが大切なように思える。ちなみに天台大師 智邈は約10年、深山幽谷に分け入って、俗から身を離して命がけで瞑想修行に励んでいる。因みに前に引用した文書の前にはこんな事も書いてある。

教相を以て顕すとは、夫れ止観の名教は、凡聖に通ず、通名を尋ねて別体を求むべからず、故に相を用て之を簡ぶなり。
国訳一切経、諸宗部三、「摩訶止観」 第三重 第一節 第一項 より引用。

要するに「拙度」といえでも基礎だからちゃんと勉強しなさいと言う事であろう。凡夫は思い込みだけでは聖者にはなれないと思う。

やはり、歴史を作るほどの古典的な名著である。至る所に数多くのヒントが載っているが、「文底秘沈」と言う事で、分かりやすい言葉を選び、さり気なく置いてある。久々に骨のある本に出会えた。古本屋でたった千円。されど多分に瞑想の勉強に関しては、一生退屈せずに済みそうだ。

*1:慈・悲・喜・捨の四つの広大な心

*2:いわいる六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、智慧、禅定)の行の事だと思う。

*3:煩悩が尽きず、涅槃に往生できない状態を指す。何処からともなく水が漏れてくる様子に喩えている。

*4:数は非常に少ないし、コメントもほとんど無いけど。

*5:と言っても、「摩訶止観」の「巧度」の部分の説明は非常に専門的で難易度も高い。誰がこの教えを説いたかと言う事を考えてみれば当たり前であるのだが。

*6:天台宗の名僧、「五時八教」の教相判釈で有名、538年〜597年

*7:多分に日本の天台、真言密教、並びに禅宗の瞑想の源流・オリジナルはこの「摩訶止観」にあると考えてよい。