拙度(2)

若し凡夫の止善の治する所は、是れ止の相、行善の生ずる所は是れ観の相なり。又四禅、四無量心*1は是れ止の相、六行*2は是れ観の相なり。此等皆未だ生死を免れず、すなわち有漏*3を相と為す。

国訳一切経、諸宗部三、「摩訶止観」 第三重 第一節 第一項 より引用。

前の日記にも書いた事だが、上記の「摩訶止観」に書いてあることを平たく言うなら、「心は止めて、行いは観るべし。」と言う事であろうか。表現は簡単だが、実行は難しいような気がする。

半月ほど前に会社の定例会議で、ちょっとした報告が原因で、こちらの意図に反して、いつの間にか激しく言い合いになっていた。振り返って考えるにその時の状態は全く逆の「心は激しく動き、行いは観えず」とだったと思う。かなり感情的になってしまったので、雰囲気が随分まずくなり、それから会社では随分気を使うようになった。そんな中で、気落ちしていると大体ろくなことを考えない。*4 物事を悲観的に考えてしまうというのは、ネガティブな事だし、一見が物事が停滞して止まっているように見えるが、心の中は嵐のような状態になっている。一方、行動や発言は悪い意味でワンパターンに陥り、結局同じ事を何度も繰り返してしまう。結局、凡夫であるとはそう言うことなんだろうか。

  • 心を止めることによって、発言や行動に継続性を持たせる事ができる。
  • 行いを観ることで、変化に順応して適切に行動や発言を変えることができる。

もしも瞑想を行っていても、現実の自分が日常生活で上の2点について実践できてないのなら、多分にそれはある種の現実逃避になっているのかもしれない。逆に日常生活の中で、呼吸を整え、体と心を調する事で、上記2点を実践する事ができるなら、それは瞑想の一つの大きな効用と言う事になる。ただ、意識を集中し高める事で、上記2点を実践する事は実はそう難しくない。難しいのはそれを習慣付ける事である。瞑想を習慣付けて行う必要があるのは、こうした事情による所が大きいと思う。取り合えず反省したことを踏まえて会社でもそう有りたいと強く願うようにした。
相変わらず、母親の病気は続いている。ここ数ヶ月回復調子だったのが、最近はまた悪化の方向に向い始めた。体の痛みを訴えて夜中に起されることも増えてきた。そう調度、去年の今ごろと同じパターンかと想い起こされる。人は過去のつらく苦しい体験を再び予想してしまう場合、非常な恐れを感じ、動揺してしまう。

「去年と同じパターンじゃないか。またあの時期の再現なのか?」

そんな中で、最近、仕事が遅くなり夜ご飯を食べていると、母親が起きてきて、泣きそうな顔でこう話し掛けてきた。

「首から背中にかけて、痛むさかいに寝られへん。つらいよ、・・・・実はな前に自分で自分の首を紐で絞めてしまってん。あれから酷くなってん。何であんな事したんや。バカやな。・・・・もう生きていくがしんどくなった、消えたい。・・・・」

どう反応しようか。一瞬迷った。去年と良く似た状況である。怖かった。ただすぐに例の「摩訶止観」の一説を思い出した。「心は止めて、行いは観るべし。」 そう動かされてはいけない。必ず冷静な自分のペースを保たなければいけない。ここで動揺してしまっては、ネガティブな方向に共感してしまう事になる。そう思い、取り合えずじっと話を聞くことにした。今のつらさを
語り終わるのを見計らい、母親にこう尋ねてみた。

「紐で首をしめたのは、いつの話なん。昨日か?一昨日か?」

「いや、10日前ぐらいや。あー、ほんま、バカな事した。けどもうあかんわ!!、もうこの痛みは直らんのと違うやろうか。つらい。・・・寝れんのや。・・・・」
「しゃーないやん、過ぎた事や。直せばいいやん。」
「そうじゃないわよ、もう駄目なんよ。つらいんよ!!」
「駄目なんかな。そうは思えんけどね。つらいのはほんま辛そうやな。・・けど治そうと思えば治るし、そう思わんかったら治らんわ。それが現実や。」

本当なら隠しておきたかったのだろう。確かに昔から自分の弱みは人に見せない人だった。そうしたプライドで自分を縛り、家族に嫌な思いさせてきた部分もある。そう思えば、自分のバカな所を正直に告白してくれた事はむしろいい傾向にあると観た方が良いのかもしれない。「だからじっと話を聞いてみよう。」「やはり心は止めて、自分の一言一言も含めて、行いを観よう。」

瞑想の応用で、少し大きく、ゆっくり息を吐き、気持ちを落ち着けると割りと物が見えてきたような気がした。言葉も冷静に選べたと思う。四無量心のうちの一つ、喜無量心は平たくは相手の喜びも悲しみも同じ目線で受けとめる心を指す。言葉や理屈ではすぐわかる。しかし実際に自身の状況をそこに保つのはやはりある種の心の訓練が必要になる。追い詰められる事で、実地に心をそこに止めるよう意識せざろうね無くなり、*5 やはり普段の修練だなと強く実感したものだ。

話を一通り、聞き終わると、話せた事で安心したのか。母親はまた自分の寝床に戻っていった。苦しみの半分は理解されない苦しみだったのかもしれない。それからもやはり、体調も精神面も相変わらずの部分が大半なのだが、まだ私の言う事を少しは素直に受け入れてくれるようになった気もする。私もそれなりに手は打ってきた。良くも悪くも、些細な事で大きく変化をもたらす場合がある。リスクもメリットも慎重に考えながら、じっと相手を観察し、言葉を選ぶようになったと思う。

先ほど母親にせがまれて占星術の盤を建ててみた。

  • 母親は「何もせずに、我慢する以外に打つ手なし、我慢すれば時期が経てば、助けけ舟が来る。」
  • 同じ盤で私を見ると「懸命に願い、祈るしかない。後は待つのみ、様子をみて慎重に方針を決めるべし。みだりに動く無かれ。」

大体こんな感じであった。やはり「心は止め、行いは観るべし。」と言う事のようだ。拙度とあってあくまで現実の世界でどう対処するかの話なので、神仏の境地、悟りを目指すような高いレベルのものではない。しかし、生きていく上で根を張った生き方が有って始めて、生死を越えた境地にいけると思うし、今は生死を越えた境地よりも、現実が早く落ちつくことを願いばかりである。

運動によって体を鍛えることで身体能力が向上するのと同様に、瞑想によって心の調整がよく利くようになるのだろう。ただ運動において、基礎体力をつけるために、単純な反復練習と同様に、心を止め継続するためには、繰り返し、一つのパターンで意識をそこに向け続けていく必要がある。知識ではなく体で覚えるということだ。基礎体力と同様に基礎精神力と言った所であろうか。そう実際に意識する事が多い今日この頃である。最近は結果的にいうなら、「自分を見失っては何もよい方針は生まれない」そう思う事が多くなった。

*1:慈・悲・喜・捨の四つの広大な心

*2:いわいる六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、智慧、禅定)の行の事だと思う。

*3:煩悩が尽きず、涅槃に往生できない状態を指す。何処からともなく水が漏れてくる様子に喩えている。

*4:酷い時は半分、被害妄想で悲観的な結果ばかりしか見えてこない。そういう時って、一体自分が誰なのか、分からなくなる。

*5:実際は、そう認識するだけでも実は大変な事なんだけど