『水からの伝言』について(その2、因縁論的な観点から)

昨年末に『水からの伝言』について、すこし思うところがあったので記事にしてみた。急いで記事したので少し意を尽せなかった部分もあるし、書いてみて後で読み返して始めて気付くこともある。また私にしては珍しく2つもトラバを頂き、そちらの方からも非常に参考になる意見を頂いた。 トラバを頂いた shigepong さんの記事には、 論理的思考に対比してパターン認識的思考という考え方が載っている。パターン認識的思考とは大まかには以下のような考え方である。

パターン認識的思考とはどういうことか。

人間が人の顔を認識するさいには、各部分に対する分析的な特徴を自動的に総合して判断を下していると考えられているが、このような認識様式をパターン認識という。機械にはできない、知的生物ならではの高度な能力である、と考えられてきたが、ここ20年ぐらいの、人工知能分野、ニューラルネット分野での研究の結果、ほぼ十分な数理モデルができあがったと思われている。

思考がパターン認識的であるとは、正しいこと誤っていること、良いこと悪いこと、の判定を全体的な印象で行っていることを意味する。例えば文章が科学的であるかないかの判断を、文章に含まれる科学っぽい言葉、(たとえば「証明」とか「実験」とか「量子力学」とか「アインシュタイン」とか) の含有率に基いて行うのはいかにもパターン認識的である。

パターン認識的思考では判断を下した後に、何故そういう判断が下ったかに関する反省がない。
shigepong さんの blog 2005-12-23 『水からの伝言』とパターン認識的思考 より引用

ニューラルネットを題材に説明されているが分かり易い。とある事象について、具体的な数理モデル化が困難で経験則的なアプローチが必要になる場合、ニューラルネットが使われる場合が多い。内容はブラックボックスであるが、既存の確定した幾つかの入出力の関係がはっきりしている場合、それをニューラルネットに学習させる事で、近似的に対象となるブラックボックスの機能を計算機上で実現できる。具体的な対象としては、株価予測があったり、環境プラント*1における燃焼制御とかだろうか。
こうしたパターン認識的な思考を行う際には、何を入出力とするかが非常に重要な要因となる。ただその入出力と言うのは、ブラックボックスの外延にあり、直接的にも間接的にも我々の五感で認識可能となる物である。当然であろう、人は感覚を以って認識出来ない物を物理的な実態を伴った現実の物として受け入れる事は出来ない。だからこそ『水からの伝言』に関してはここが実は一番大きなポイントになってくると思うのだ。水からの伝言の主張を簡単に要約すれば、以下の三点だと思う。

1. 「ありがとう」等、感謝の言葉を水に伝える → 水がきれいな形の結晶になる。
2. 「呪ってやる」等、憎悪の言葉を水に伝える → 水が乱れたな形の結晶になる。
3. 1. 2. より「水」は生命の根源的存在(波動)であり、精神、霊性を宿した神聖なる存在(波動)である。

人の良心などの意識は物理的に把握がほぼ不可能な物であり、それを人が知覚する事は非常に難しい。一般に物質と精神といった風に二項対立で考えられるケースが多いと思う。しかし仏教においては精神を漠然とした一項ではなく、もっと具体的に分けて考え、物質も含めて多項的に考える。例を挙げれば、般若心経に出て来る色(物質)、受(感覚)、想(認識)、行(意志)、識(意識)の五項の関係で森羅万象を捕らえようとする考え方である。この場合、水の結晶の形は受(感覚)の領域であり、その美醜は想(認識)「ありがとう」、「呪ってやる」という気持ちや発言は行(意志)の領域である。その元となる感謝、憎悪については識(意識)であろうか。精神や霊性となると、こうした受想行識の総合的な相互作用として語られる物である。*2

心・精神と一括して考えると何となく分からないが、思考の元となる部分を仏教的なものに変えてしまうと、『水からの伝言』で語られている事は精神的な事を語っている部分だけでも、因果関係がぐったぐたなのである。何らかの関連は有るかもしれないが、強引に一直線に因果関係を結んで良い物ではない。意味的な距離としては感覚と意志は物質と認識ぐらいの距離があるのである。水の結晶の美醜という感覚(受)は認識(想)の要因となるが、意志(行)は認識(想)の要因ではない。意識(識)する物であり、同列に扱う事は合理的でない。

通常ならば、「整った水の結晶写真(色)を見て(受)、その美しさ感激して(想)「ありがとう」と言葉(行)共に感謝の気持ち(識)で一杯になった。」と言えばごく普通の人間の自然な心象風景となる。疑問は湧かない。と同時にあまり神秘性も感じない。水からの伝言』がいやらしいと思ったのは、このごく普通のしかも物理的には把握が非常に困難な事象を、強引かつ巧妙な論理操作によって、何の根拠も無く、色受想行識の自然な流れを組み替えて神秘的に演出している部分であろうか。それは現象の入出力が言葉(と言う音波、つまり色)と結晶の形(これも色)であり、両方とも一応物理的な現象になっている。よって内容が物理現象ではないにも関わらず、パターン認識的な思考に陥りやすい形に演出されていると思うのだ。そして感覚で捕らえられる入出力関係で本来物理的に検知不可能な人の意識が、なんか把握、制御可能なように思わせている。その辺が神秘的な味付けと言う所であろうか。加えて、元の流れがごく自然であり、ある意味、倫理的であるために、心情的に反論し難くなっているのかも知れない。

普通は物質と精神をごちゃ混ぜにして考えても良いのは、ファンタジーの世界だけである。だがファンタジーが存在するのは、人の精神がそれだけ感覚、特に視覚(文字やシンボル)や聴覚(言葉)に依存しているせいなのだろうか。世界には具体的な形で認識しづらい物が存在する。それは人の精神や魂の領域にも、物理的な世界にも存在する。例えば、我々が普通に使う『時間』という概念は、具体的にどのように感知すれば良いのだろうか。確か哲学者のハイデッガーはこの問題に真正面から取り組み、かなりの労作を残したはずだ。我々は具体的に感知できない物は、時間のようにわかった振りをするか、何か具象を伴った象徴(シンボル)を当てはめて具現化しようとする。そうした行為は直感的に正しい場合もあるが、大抵の場合は何らかの誤りが主体となってしまう。前の記事で偶像崇拝はキリストやイスラムの世界では、非常に忌み嫌われると書いたが、これは神と言った至高の存在を安易に具象化しようとすることを軽蔑しているである。「神に対する安易な具象化は、底の浅い精神であり、迷信にはまった愚かな存在である証拠だ」という事であろう。*3

1と2の命題についてみただけでも、般若心経的に見るならすでに命題として破綻しているが、1と2 の事実から3を結論づける部分に至っては、強引に取り繕っているとしか見えない。と言うより 3 の命題を成立させるために 1.2. の前提条件となる命題を強引に持ってきたと言っても良いだろうか。この辺についてはもう少し詳しく論じたい。例えば 百歩譲って『水からの伝言』 1. の命題

『「ありがとう」等、感謝の言葉を水に伝える → 水がきれいな形の結晶になる。』

が正しかったとしよう。それが何を意味するのかを考えてみよう。色々な捕らえ方がある。『水からの伝言』では水に神聖さを付加して、結果的に以下のような結論を導いている。

『「ありがとう」等、感謝の言葉を水に伝える → 水には霊性があり、感謝の気持ちを共鳴する。→ 水がきれいな形の結晶になる。』

ただ、なぜこういう結論に至ったのかと言う明確な説明は無かったと思う。別に次のような形でも良いのである。

『「ありがとう」等、感謝の言葉を水に伝える → 水には霊性や精神なんて存在しないが、感謝の気持ちを間接的にかつ、物理的に検知する『謎の仕組みX』がある。→ 水がきれいな形の結晶になる。』

つまり、「ありがとう」と「きれいな水の結晶」の関係は温度と温度計の関係と同じである。関係性は一方向であり、温度が変化すれば温度計は変化する。しかし温度計に細工をして、800℃ と表示させても、対象が 800℃かどうか分からない。原子力発電所の点検作業で同様のことをやったなら、データ捏造であり、下手すれば犯罪である。個人的にはこちらの方が論理的にはまだ飛躍も少なく、整合性があるような気がする。*4 ただ、『水からの伝言』では波動を用いて、水の結晶状態を変える事で人の意識が清浄になると主張しているが、こちらの立場にたてば、その実態は点検業務におけるデータ捏造の現場と大して変らない。

しかし、なぜ多くの人はこうした考えにはならないのだろうか。多分それは、「謎の仕組みX」のせいだと思う。先に述べた人がファンタジーを求める気持ち、具象化して理解したいという欲求だろう。それは人間の根源的な欲求かもしれない。不合理を避け、未来に対する安心を得る為であろうか。「謎の仕組みX」を謎のままにしておくには多分にある種の精神力が要求される。多分に哲学者と呼ばれる人たちはそうした力を平均以上に持っているのであろうか。哲学的に探求する心があれば、与えられた事象が(百歩譲って)事実であっても 『水には霊性があり、感謝の気持ちを共鳴する。』と言う結論にはそう簡単に至らないと思う。
しかし何故、あのような論議が世間に受け入れられて、ついには義務教育の現場にまで進出してしまったのだろうか。一言で言えば、それが『人の弱さ』なのだろう。さらに思うところは色々あるが、長くなるので続きは後日にする。

*1:いわいるごみ焼却炉のこと、この場合プラントで燃やす物を定量的に把握するのが困難なので、具体的な物理現象としての数理モデルを構築づらい。

*2:私見を言えば、精神は受想が、霊性は行識が主体となる場合に使う言葉だと思う。外か内の違いか。

*3:だからと言って、アニミズムが安易に駄目だと言うのは早計かもしれない。そこにはそれなりの生きる知恵がある場合もある。まー『水からの伝言』の場合は安易な迷信だと思うけど。

*4:単純な因果律の立場から言えばの話である。