食物連鎖

最近、仕事が忙しくなったせいか、昼食はコンビニの弁当で済ますことが多くなった。ただ弁当選びでもそれなりに大変で、試行錯誤の結果、女性客でにぎわう駅内のコンビニの物を買うようになった。とりあえず、客の多さで質の高さを仮定している。先日、休日出勤の際に、ちょっと寄り道をして、梅田のキッチンガーデンで、ヒレカツ弁当と、シーフードサラダを買った。やはり普段の 2.5倍ほどの値段を払っただけのことはあった。誰も居ない職場での昼食ぐらい、少しは贅沢な気分ですごしたいものだ。

ただ、その日の午後、体が非常に軽かったのは、単なる気のせいではないような気がした。いつも昼食後は胃がもたれるので机の上にうつ伏せて昼寝をするし、だるさが完全に抜け切るのに、2,3時間はかかっている。が、この日は違った。体が、というか胃が軽い。
コンビニ弁当のように油物が少ないせいか?
しかし、大き目のヒレカツも一緒だったし。
サラダを大量に食べたせいか?
後日、同じ事をコンビニサラダで試してみたが、そう顕著に効果は無かったように思える。

「知り合いがな、コンビニ弁当毎日食うて、体から噴きでもんできてしまって、弁当止めたら直ったらしいで。」
「あれ、容器に消毒液吹き付けて、ろくすっぽふき取ってへんらしいやん。」

そんな話をしたら、脅しめいた薀蓄を知り合いから聞かされてしまい、ちょっと自分の健康を本当にどうしようかと考えさせられた。そう言えば、つぶれてしまった駅の弁当売り場で買った、おにぎり弁当を食べたその夜に違和感を感じたまま、高熱を発して4日間寝込んだこともあったっけ。因果関係は多分無いと思うけど、体があのときの食後の違和感と、その後の発熱を覚えてしまっていて、その後おにぎり弁当には、なぜか手を出せないで居る。
ただ、食事を考えるとき、食材もそうだが、作った人の意識も非常に重要な気がしている。昔、母親が朝ご飯にチャパティ*1を自分で作っていた時期があった。健康に良いということで、無農薬、国産の小麦を使い、自分で焼いていたのだが、正直、食べるのがしんどかった。胃にもたれたし、健康にはよさそうでも、そうおいしいとは思わなかった。単純に焼き具合とか、水気とそういった問題もあったかもしれない。ただ、あの頃、家の状況が非常にゴタゴタしていた時期で、母親も相当ストレスに晒されていたと思う。そんな現実から逃避するように、睨むように小麦をこねる姿にどこか凄みを感じたものだ。「なるべく火を通して、もうちょっと、水分を抜いてほしい。」と注文をつけると、「文句あるのか」と反発されて決して自分の作り方を変えようとしなかった。重たかったと思う。

そう言えば、桐野夏生の「OUT」も舞台はコンビニや駅の売店に出荷している弁当工場の夜勤現場だった。ちょうど不況に入り、「ディスカウント」が幅を利かせ始めた頃、低価格を実現するために効率第一の大量生産方式で稼動する弁当工場、働くことへの閉塞感。普通の主婦が犯罪に走る舞台として、そんな設定が用意されていたと思う。作るものとか食べる人とかへの気持ちなど、多分ほとんど無いと思ってしまうが、安さで勝負する以上、それは仕方の無い話なのだろうか。

なんか、「ごはん」じゃなくて、「えさ」という言葉がふと頭をよぎった。

「輸入野菜と有機国産野菜のどっちを使う?」「有機のほうが安心だけど高いよね」。これはお弁当の中身をチームのメンバーと相談している会話。「お弁当屋さんゲーム」という、お弁当屋さん経営のシミュレーションを通して、食べものと自分、自分と世界とのつながりを考えるワークショップに参加した際のことです。

 他の参加者とチームを結成、世界で起こるさまざまなニュースを読み取り、影響やリスクを考えてお弁当を企画、どのチームがいちばん儲けられるかを競います!

「日本はこの夏は冷夏になりそうという予測です。さぁ、仕入れにどんな影響が出るか推測して素材を決めてください」。講師の佐久間智子さんからのニュース発表。冷夏ってことは国産米は高くなりそう、少しでも安そうな輸入米を買おうかな。他のチームも同じことを考えていました。商売としては、これが正解。

でも、佐久間さんの補足説明がショックでした。1993年は冷夏で日本中が米不足に陥ったことはみなさんの記憶にもあるはず。初めてタイ米などが輸入されたけれど、炊き方が違うことが知られていなかったなどもあり、「おいしくない」と不評、たくさんのタイ米が捨てられたというニュースもありました。

 「あの年、それまで米をまったく輸入していなかった日本が世界中で米を買い漁った結果、国際市場での米価格が暴騰し、輸入米に主食を頼っているアフリカのセネガルでは多くの人が飢えで亡くなりました」

食べ慣れた日本米のほうがいいな、なんて思いながらのん気に過ごしていた頃、地球の反対側ではたくさんの命が奪われていたなんて……。
「Cafeglobe 「Get Real プロジェクト 知ろう、知ってもっとみんなでハッピーに」 第3回:私たちの食べものは世界につながってる 文/城石 愛(cafeglobe) より引用。

普段、購入している「THE BIG ISSUE JAPAN」の裏表紙に載っていた意見広告にのっていたが、確かに考えてみればそうである。今でも東北地方の米どころと呼ばれている地域にある、お地蔵さんには、飢饉による犠牲者を供養する為のものが沢山あると聞いたことがあった。民芸品の「こけし」にしても「子消し」が実は語源で、飢饉による食糧難を回避するために、赤子をやみに葬った贖罪のために作られたのが始まりだと、ブラックな解説を聞いたこともある。「餓死者」、「娘の身売り」、歴史の授業で習った大正時代の「米騒動」もそうした背景に基づくものだ。

20世紀後半にはいり、技術が進歩して、経済力がついてから日本ではそうした現実は失せてしまった。ただそれは、科学や技術、社会の進歩が、飢えに苦しむ現実を解決した結果ではなく、世界が狭くなった結果、我々は本来我々自身で蒙ってきた犠牲を、経済力で海の向こうの知らない国に転嫁できるようになったのだ。地球上で生産できる農作物の量には、限界があり、それゆえに養える人口にも限度があるという事実。目の前の便利な現実に少しおかしいと思っていた。農作物が不作になれば、必ず、誰かが飢えるはずなのに。

コンビニなどの弁当は賞味期限がその日のうちに設定されており、翌日の早朝には廃棄されるという。そこだけではないが、日本のそうした廃棄される食品の量は半端な数ではなかったと思う。単に食べるだけのため以上に、便利さと見た目の衛生観念を維持するために、我々は多くの犠牲を払っているのだと思う。グローバリゼーションという状況下で、トップクラスの経済力を誇る日本は、自然と「食物連鎖」の頂上に位置しているのだと思う。こんな現実を知ったとしても、なお控えめにはするだろうけど、時にはコンビニの弁当やおにぎりを食べるだろう。食料廃棄の現実にしてもそうした需要がある以上仕方の無い話かもしれない。

今日は、お盆である、正式には盂蘭盆会とよぶ、この行事、今では先祖の霊を迎えて感謝の念で供応するための情緒のあるものとなったが、本来の趣旨とは違う。「盂蘭盆」は梵語でその意味は「逆さづり」である。逆さづりにされるような苦しみを味わう地獄の亡者を救うための行事である。本来の伝統を覚えている寺院ならば、この時期には、必ず施餓鬼壇を設けて、無縁と成った餓鬼の霊への供養を行っているはずである。もともとの趣旨は前にも書いたが、釈迦の高弟、目連尊者の母親が、夫を早く亡くしたがゆえに、生前息子に良い教育を受けさせるために、金儲け*2にまい進したが、その過程で多くの人を踏み台に荒稼ぎをしたために、その集怨と悪業の結果、死後、餓鬼地獄に落ち、口に入れる飲食物が全てに口内で炎に変わるという苦しみを受ける羽目になったという伝記が由来だそうだ。

今時、この話を真に受ける日本人は多分、ほとんど居ないであろう。ただ、想像力はもっと働かせたほうが良いのかもしれない。

  • 貧しいなりにも、家族がいて、それなりに幸せだった日常の街。
  • 遠い国で起こった涼しい夏、取れない作物。
  • しばらくしてから街で起こる異変。高騰する食料。
  • やがてその姿さえも消していく。手に入らない食料。
  • 困惑する母親、苦悩する父親、栄養不足は抵抗力を奪い、弱い子供達から順に蝕んでいく。
  • 逃げていくのは、力がまだ余っているもの達。
  • 弱きものはただ唐突に来た終わりの光景を待つしかない。
  • 突然襲った飢えの末に、最後は何を思い、命が果てていくのだろうか。

食事に人の気持ちがこもると言うのなら、我々は知らず知らずのうちに、何か得たいの知れないものに侵されているのだろうか。時々、夜の道端に無造作に捨てられた、食いさしのコンビニのおにぎりやジュース類を見ているとそんなことを考えてしまう。まるで盂蘭盆の話に描かれた餓鬼地獄の様相に通じるものを感じるからだ。現実問題、私たちが食べているものが、知らず知らずうち、身の毒となっているかもしれない現実に、盂蘭盆の由来の設定が、「炎と化して口内を焦がす」ではなく「猛毒と化して、体を苛む」だったら、より現実感があるように思ったりもする。

考えてみれば、環境問題でイヌワシが河川の化学汚染による被害を大きく蒙り、種の存続の危機に瀕したのは、その一帯に於ける食物連鎖の頂点に立つからである。世界経済の世界での食物連鎖の頂点にたつ我々は果たして大丈夫なのだろうか。この時代における盂蘭盆の教訓は案外とそんなところにあるのかも知れない。*3


日本の食と農 危機の本質 (シリーズ 日本の〈現代〉)

日本の食と農 危機の本質 (シリーズ 日本の〈現代〉)

*1:インドでよく食されている種無しのパン、インド料理店のメニューでも見ることがある。

*2:一説では高利貸しと聞く

*3:「教訓」という言葉、教条主義的で今ではあまり好まれないかもしれない。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際で、どう判断すれば良いかという教えであるなら、やはり必要な気がする。