三脚は足の広げ方でどこにでも立つ事が可能である。

三区分法とは、人間存在を精神・心・肉体に三区分することによって理解する手法のことである。世俗的進行にともなって出現した二区分法とは、精神が弱まって心に包括された結果として、人間存在を心・肉体に二区分して理解する手法のことである。
実際のところ私たちは、精神の働きと心の働きを区別することが困難になりつつある。しかし古代ギリシャから近代に至るまで、西ヨーロッパにおいて精神すなわち霊魂の存在とその不滅性は、ほぼ一貫して主張され続けてきた。・・・・・・<略>・・・・・・ 近代においては例えばデカルト著「方法序説」第五部やスピノザ著「エチカ」Ⅴ−xxii やドイツ観念論において、霊魂不滅の思想は、霊魂にかんするイメージ或る程度の幅はあるけれども、総じて肯定されてきたのである。・・<略>・・しかしながら霊魂不滅の思想は、哲学的人間学のうち精神の位相を強固に支えるものであり西ヨーロッパ思想における本流であったいうことができるのである。
・・・・・<略>・・・・・
また倫理学上の価値観は二区分法によっては支えることができず、三区分法によってこそ、支えることができると、私はかんがえている。
中里 巧 「精神のリアリティ」 理想 第267号 P39-P40 2007 理想社 より引用

デカルト心身二元論が近代西洋思想の源泉のひとつと思っていたので、わりと新鮮な驚きを感じた。西洋思想も奥が深いと思った。確かに脚が三本あれば、どこにでも立つことが出来るが、二本の場合、安定を欠き、バランスを崩しやすい。著者はこの論の後半で、アニミズム的なセンス・直感を日常的、生活の中での実感として捉えることが倫理学を蘇らせることにつながると主張している。なるほどと思った。論としての倫理学についてはよく分からないが、倫理的に考えなければならないと思うことが最近増えたような気がしていたからだろう。
仕事でソフトウェアの開発における品質と向き合わなければならないことが多い。目に見えない論理だけの存在であるソフトウェアを計測して、その状態を定量的に判定するのは至難の業である。また設計の源泉となる仕様の組み立て方によっても最終的な成果物の仕上がりは全然違ってくる。技術がどう発展しようとも、コンパイラのような例外を除き、ソフトウェアは人の意図や志向に左右されてしまう。結局は開発者の倫理(モラル)や理想によるところが大きいような気がするのだ。ただ組織の中で倫理的に振舞うことや何が倫理的であるかを明確にすることの難しさを実感する。

そう言えば、転職する前の職場は工場の中にあった。工場には神社があり、安全委員に任命された年には、年に二回、神社でお払いを受けていた。(ちなみに安全祈願のお払いは毎月行っていたらしい。)確かに利益追求という観点では、こうした行事は無意味かもしれない。品質や安全は時として利益と相反し、突き詰めれば職場という共同体において人間らしさや幸せ、充実感を確保するためのものだと思う。そういう意味では倫理的な事項であり、こうして手を合わせて精神の働きを高め、理想について想いを集中すると言うのは、意義の或ることだと思うのだ。

ただ、今年から転職してソフトウェア専業の会社に入ったが、そうした雰囲気はまったくない。ややもすれば、最近の成果主義が象徴するように、経営側と労働側が単純に労働に対する成果報酬に関する契約だけで結びついている団体なのかもしれない。どこで組織としての倫理(モラル)を保つのか。難しい問いなのかもしれない。当たり前であるが、法令遵守の概念は、倫理(モラル)と似て異なる概念である。守るべきがなんであるかを考えればよく分かる。



先週、ソフトウェアの品質管理にかんする会社の研修が東京の親会社であり、浅草に泊まった。浅草寺を中心に情緒のある街だ。夜、ホテルに向かう途中、浅草寺の境内を抜けていったが、どの日も本堂入り口の賽銭箱の前で手を合わせている人を見かけた。自分も手を合わせた。大都会の中のこうした空間はなんか非常に貴重に思う。会社の研修の会場は近代的で、中では IC チップを組み込んだ社員証が必要となるセキュリティの厳しいビルである。無駄も無く無機質で、空間的には広くてもどこか息苦しさを感じるように思えた。そんな時、会議室の入り口の横に何処かのお寺か神社の小さなお札がさりげなく張ってあるのに気づいた。多分、それなりに意味のあってのことだろうと思った。