寝る

今日は何曜日だろうか。久々に休みを取って家にいるので、土曜か日曜日かと錯覚してしまう。昼間、学校がにぎやかだったので、今日は平日ということになる。明日からまた会社だ。しばらく働きづめの毎日が続く。だから、もう寝よう。・・・・

最近、会社で眠い。昼休み机でうつぶせて、そのまま目を覚ませば、昼休みは15分前に終わって、周りはすでに仕事を始めていることも時々ある。ただ眠い目をこすりながら仕事をすることに、何の意味があるのか、時々そう思う。ソフトウェアの仕事は、根性や精神論で仕事を進めると、結局、大量のバグをプログラムに埋め込むことになるのだ。今の忙しいのはそんな他人が作った大量のバグの後始末だったりする。

休日の方が仕事がはかどる場合が多い。休日なら、しんどくなったら、あいている会議室や廊下のソファーで、30分ほど昼寝をしてから、作業を再開できる。特に難しい問題にぶち当たったときなどは、そうした方が断然効率がいい。体がしんどいときは素直にしんどいと自分に向き合えるようにしている。周りには、そこで無理をして感情的に落ち着きをなくし、判断ミスをしているケースが多々あるように思う。そんな時、空気が少し痛い。デスマーチとはそんな無理の積み重ねだなと思う。

生活のほとんど全てを仕事に当てたところで、本当に質のいい仕事になるかどうかは定かでない。最近、新聞か何かで、ヨーロッパのホワイトカラーの生産性は日本よりもはるかに高い。しかも、労働時間ははるかに短い。結局、合理的で、仕事に無駄がないからだ。とそんな記事を読んだ。なんか身につまされる。
「疲れた」。「眠い」。「しんどい」・・・死の行軍であっても、わがままを言ってみよう。若干勇気はいるが、もしそこで止まる事ができるなら、出口は案外と近いのかもしれない。

ある勇気あるジャーナリストの殉職

ロシア政権批判の女性記者が殺害される・通信社報道

 【モスクワ7日共同】インタファクス通信によると、プーチン政権のチェチェン政策などへの厳しい批判で知られるロシアの著名な女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが7日、モスクワ市内の自宅近くで殺されているのが見つかった。

 警察当局によると、遺体には銃撃の跡があり、射殺されたとみられる。

 ポリトコフスカヤさんはテレビ記者を経てノーバヤ・ガゼータ紙などで活動。独立を主張する南部チェチェン共和国の独立派を武力で抑え込んだプーチン政権の強権的手法を批判していた。 (23:46)

Nikkei NET、10/07 の主要記事より引用。

密かに尊敬していた、ロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ女史が殉職された。2年近く前に、アンナさんのチェチェン紛争での活動の記事を読み、その文字通り、命を張った義人ぶりに、思わず涙が出て、すぐにその著書「チェチェン やめられない戦争」を読み、その内容に強い衝撃を受けたと思う。

著書に書かれている彼女の文章はジャーナリストとしては、いささか感情的で、すでに冷静さ、客観性を欠いた物だったかもしれない。しかし、自らの非力や身の危険を省みずに紛争犠牲者のために奔走する、その姿勢や態度は、読むものに襟を正させる強烈な何かがあったように思える。
戦争という地獄を前に、凡人が往々にして、目をそらし無関心を装ったり、ヒロイズムのオブラートを被せて、いびつに美化したりする傾向のある中、一個の人間としてどこまでも、武器を持たない弱者の側に同じ目線で立ち、その耐え難い現実を発信してきた彼女の勇気には、深く敬意を表したい。

個人的には、職業における倫理や勇気といったものを彼女の著書を読んで、深く考えたと思う。最近、デスマーチの最中にいるのだが、小さな面倒におびえる余り、何か大きな物を失っているような気がする。もう一度、勇気をもつことについて、考えてみようと思う。

あと、「ペンは剣より強し」とことわざにある。はじめは理想論だと思っていたが、アンナさんを知ってから考えを改めたように思う。今回、アンナさんは凶弾に倒れたわけであるが、これは、決して良識が暴力に屈したわけではない。ロシアで多くの人が、彼女が亡くなった後に花をささげ、抗議の意を表したことを観て、強くそう思った。銃弾を放ったものは、彼女の勇気と良識を恐れるが故に、そうしたのであり、武器による恐怖でしか人を動かせない、自らの弱さを暴露したのも同然であると思う。つまり「銃はペンに負ける」と恐れたからこそ、暗殺テロのような、卑怯な手をつかったのだ。

願わくば、彼女の死が無駄になることなく、彼女の残した軌跡が、引き継がれ、一日も早く、チェチェンの紛争地帯に平和がきますように。それは、単なる一地域の特殊な問題ではなく、全世界における紛争、戦争において、国や民族の違いを超えて、共通する構造を持つからである。

それが多分、亡くなったアンナさんへの一番の手向けになるような気がする。

合掌

チェチェン やめられない戦争

チェチェン やめられない戦争

読む。

今日、帰りの電車の中で、眠いながらも少し気づいたこと。

この人物は、どうすれば良いプログラムを書けるか長い間考えて、それを反映して、次のように述べている。「優秀なプログラマになる最良の方法は、自分でプログラムを書き、ベテランの作った素晴らしいプログラムをじっくり読むことだ。・・・・・ 私は、コンピュータ・サイエンス・センターへ行き、ゴミ箱の中からオペレーティング・システムのソースコードを漁ったものだ。」 他人の書いたプログラムを読むことが以下に重要かを十分に理解しているこの人物は、誰もが知っている、あのビル・ゲイツである。

ソフトウエア開発 55の真実と10のウソ 」 事実 44 保守 より引用。

ソースコードをじっくり読むと言う行為を通じて、人の仕事を理解して、自分の意図をどうすれば伝えられるか。そうしたことを考えることは非常に大切だと思う。追い込まれた状況だけど、生産するソースコードの量と、システムの品質は比例しない。むしろ逆だろう。人の仕事をいかに有効に活用して、少ない仕事量で、仕様を満たすシステムを組むことを考えたほうが実は効率はよい。

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切った、張った。

ただいま、仕事中。ひたすら、みんなの書いたコードを確認しながら、

みたいな事をしている。あと java のNIO が API に書いてある通りの挙動をしてくれなくて、SocketServer のスレッドがスタベーション起こしたりしてね。回避策を考えるのに必要な単体テストケースのクラスを考えたり。ひたすら javaソースコードに手を入れまくっている。

なぜだろう。非常に楽しい。切羽詰まっているのに。・・・・けど疲れたからもう寝よう。

もっと、もっと、苦しいぐらい生きれたら、何もいらないって、思えるかな?
夢みる明日も、あふれる欲望も捨ててしまえ、今日吹く風の中、ありのままの私で。
もっと、もっと、悲しいと思って生きてみたい、何もいらないって、思ってみたい。
消せない痛みを、抱えて走り続けたら、この世界もいつか色鮮やかに見えるから。

今日の BGM 「リップクリーム」 by 奥華子 @やさしい花の咲く場所

やさしい花の咲く場所

やさしい花の咲く場所

トンネルの入り口。

長いトンネルを入ったところにいると思う。振り返るとまだ光が差しているが、そこに戻る事は出来ない。先は暗くなる一方で、出口は見えない。休む場所を探そうにも、暗くてわからない。とにかく光が見えるまで、歩き続ける必要がある。*1 それは死の行進になるかもしれない。どのように進もうか。ちょっと思案中である。少なくともここのように正義の味方を演じなければならないほど、酷くは無い。単純に見積もりが甘く、量が過剰になっただけである。それでも前に進まないと何も始まらない。

昔、安藤忠雄が新聞か何かに、遅くなった仕事の帰り道、終電を過ごして、わざと徹夜で歩いてかえることを勧めていた文章を思い出した。特に若い人にだったと思う。彼の設計事務所にアルバイトに来ていた学生が、それを実践し、大阪から京都まで線路に沿って、一人夜通し歩いたそうだが、その学生は、普段考えないような、人生の目的とか、自分はいったい何者なのかと、その間だけ、思索にふける哲学者となれたらしい。そうした普段考えないような事を考える時間は非常に貴重だったと、安藤忠雄に語ったようで、それを聞いて安藤も非常に嬉しかったと書いてあったと思う。

とりあえず、そんな風に歩いてみようか。どんな状況に陥っても前を見て、現実と向き合って、考えることは、必ず何がしかの力になると思う。

血が通う、この身を想う、彼岸花

孝葦子

*1:今日も、明日も、しばらく休み無く仕事である。

人の名前。

さすがに、メディアでは、誤記はまったくないのだが、 blog や 掲示板や mixi のコミュでは、「安部」、「阿部」、「阿倍」、「安倍」とか、読みが同じである色んな「あべ」が出てくる。*1「麻生」や「谷垣」では、ほとんど誤字は無いのだが。何だかな・・・と思う。

さて来年の参院選まで大丈夫なのだろうか。人に自分の名前をちゃんと覚えてもらうのは、PR の基本だと思うのだが。→ 次期、日本国首相殿。

*1:ちなみに正解は「安倍」である。

[仕事][考え][工学] 「時をかける少女」の仕事術をみて思うこと。


細田さんの場合、コンテを描き上げた段階で、完成したフィルムに近いイメージができあがっているわけですよね。

細田 絵コンテというのは設計図ですからね。完成させられる事が保証できるものでないと、設計図にならないではじゃないですか。「こうしたい」という夢を詰め込んでも、それが実現できなくては、設計図とはいえないからね。そういう意味では、コンテ段階である程度は作品として実現可能なものにするようにしている。そういう意味では、コンテ段階である程度は作品として実現可能なものにするようにしています。もちろん、画を作っていく過程で作画監督美術監督、あるいは撮影監督といった現場のスタッフがそれを膨らませてくれるのを期待していますが、たとえ、膨らませてもらえなくても作品として成立するようには心がけています。

ANIMESTYLE ARCHIVE 「時をかける少女 絵コンテ∞細田 守」 飛鳥新社より。

時をかける少女」という作品を観て*1 の感想であるが、筋書きがしっかりしている上に、台詞から、声、作画、背景、音楽、主題歌などの作りこみがすごいと思った。単に凝っているのではない。いわいる気持ちがこもっており、映像というよりも、生で観ている演劇に近いものを感じた。「神は細部に宿る」という言葉を地でいく作品だと思う。どこをとっても作り手のこだわりと同時に、作品の主題(テーマ)に対する敬意を感じた。それ故に絵コンテ集の細田さんのインタビューを読んで思ったのは、細部を気持ちを込めて作りこめるのは、作品の背骨にあたる脚本やコンテの段階で、実現可能性まで含めて、思索・検討が十分に練られているからであり、土台がしっかりしているからこそ、各担当は安心して自分の仕事に打ち込めたのだろうかということである。

*1:実際には3回ほど見た。一度目は何気なく、二度目はストーリーを追いながら、三度目は作画や美術や音楽をじっくり鑑賞しながらといった感じであろうか。

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